「今日」トップ 元治1年11月 テーマ別日誌 事件:開国-開城 HP内検索 HPトップ

◆11/13へ  ◆11/16へ

元治1年11月14日(1864年12月12日)
【江】会津藩京都公用人小森久太郎、京都に書を送り、老中阿部正外が他の幕閣と
「一つ穴の狐」である可能性、白河藩士への用心の必要性を報じる。
また、阿部老中が「京都方」とみなされているとの江戸重臣の意見も伝える。
 【芸州】征長総督徳川慶勝、諸道の出征諸藩に令し、進撃日限「十八日」を延期
(長州藩主父子伏罪の情が見えるため)

◆11/11【芸州】目付戸川鉾三郎、長州藩家老に長州藩追討の令を伝達。【長州】萩藩、元家老益田三家老に自刃を命ず。【小倉】征長副将松平茂昭、小倉に著す。
◆11/12【江】幕府、老中の役割分担を定める【長州】藩士宍戸左馬介・同竹内正兵衛・同佐久間左兵衛「義・同中村九郎を斬刑


☆京都のお天気:快晴(嵯峨実愛日記)

>第一次幕長戦
将軍進発問題
〇江戸の事情(by東下中の会津藩士)

【江】元治元年11月14日、 将軍進発督促のために東下中の会津藩公用人小森久太郎は、京都に書を送り、老中阿部正外は他の幕閣と「一つ穴の狐」、「懐中の虫」の可能性があり、京都においても白河藩士には用心すべきだと述べました。また、江戸重臣(上田一学)の意見として、阿部は他の老中から「京都方」とみなされ、疎外されている可能性も伝えました。

(11月14日付小森久太郎書簡のてきとう訳)
豊田少進上京(=上野宮(輪王寺宮)の家臣。幕府が使者として上京させ、将軍進発延引の沙汰を請う事を計画しているとの説があった)について、(阿部老中家臣の)高松佐吉の上京前に確認したが、一向に知らないというので、豊後様(=阿部老中)に確認するよう頼んだ。事実なら手紙をもっての返答はいらず、虚説であればその旨を伝えてもらえるはずだったが、何事もいってこないまま出立した。よって、豊後様も(豊田少進上京計画を)ご承知だとみえる。

このことを考えれば、やはり、豊後様も一つ穴の狐なのではないか。甚だ不審なことである。少進が上京して何を申すのか、もし、自分より申上げた次第(=将軍進発延引の沙汰懇請)であれば、いよいよ不審なことである。そうであれば、高松はじめ(阿部老中の)御家臣共には、当藩と同様の心根(ー朝廷尊崇・将軍進発は是非必要)だと何事も打ち明けるのは御見合せになされたい。(御家(=会津藩)に間者をつけられるかもしれない・・・御用心が専一と存じる。二条殿(関白)、宮様(中川宮)、徳大寺様辺にも、しかるべく御対応なさっておくよう愚考する。・・・いずれにしても、日々に御進発の気勢は薄くなるようにうかがわれる。

酒井候(老中酒井忠績)、泉州候(老中水野忠精)、豊州候も、小子にお会いになるとは申されているが、未だ、いずれ様よりも御日取りを承らない。このため、小子が持参した(容保の)御直書(=勅使東下の評議を伝えて、進発を督促する内容)の御模様については、一向に分からないので、追々申し上げる。くれぐれも白河藩への御用心は肝要だと存じる。まったく懐中の虫ありと存ぜられる。

これらの事情をとくと御評議の上、御用の間(=在京家老)、御前(=容保)へも言上しておいてほしい。
(別紙のてきとう訳)
豊州様の件は・・・上田一学(江戸家老/若年寄)殿にも伺ったところ、御同人のご意見では、豊州様は、当地の御閣老には「京都方」と考えられているため、今回の一条も、豊州様へはお話合いがなく、まったくご存知ない可能性もあるのではないか、とのこと。ご参考までに申上げる。(後略)

<経緯>
禁門の変を契機に関係が強化された一会桑は、朝廷(特に二条関白・中川宮)と結びつき、朝廷と幕府の融和を促進しようとしました。一会桑は、「朝敵」となった長州が混乱に陥っている間に速やかに将軍が上洛し、征長の指揮をとることが、朝廷尊崇・幕威回復になると考え、老中阿部正外に随従させて将軍の急速上洛を促す使者(会津藩は公用人野村左兵衛・公用方広沢富次郎)を送りました(こちら)。また、四国艦隊が下関を攻撃する前に長州を追討すべきだとも訴え、下関戦争後は、四国艦隊の早期長州退去を促すよう求める使者(会津藩は公用方柴秀治)を送りました(こちら)。幕府が外国の力を借りて長州を討とうとしているという噂を危惧したためです。しかし、将軍上洛は進まず、8月下旬には、朝廷も人心に障りがあるとして将軍の急速上坂を命じました(こちら)。10月1日には参内した老中阿部正外が、将軍進発を進めるよう命じられていました(こちら)。それでもいっこうに進発しないため、督促の勅使を送るという評議が起り、そのことを中川宮からそれを知らされた容保は、11月2日、将軍及び老中に親書を認め、進発督促の勅使をの東下させる評議があること、食い止めている間に、速やかに進発するよう促しました(こちら)。同時に、事情を説明する使者として、小森久太郎が早駕籠で東下し、7日に江戸に到着していました。

参考:『京都守護職始末』2p124−127(2018/9/2)
関連:テーマ別元治1■一会(桑)、対立から協調・在府幕府との対立へ

■長州恭順謝罪
【芸州】元治元年11月14日、 征長総督徳川慶勝は、諸道の出征諸藩に令し、長州藩主父子伏罪の情が見えるとして、11月18日の総攻撃の日限を延期しました

これより先、11月11日、長州藩は、禁門の変に出陣した三家老(益田右衛門、国司信濃、福原越後)に対して自刃を命じ、三名はその日のうちに割腹していました。また次の日には、四参謀(宍戸左馬介、佐久間佐兵衛、竹内正兵衛、中村九郎)が斬刑に処せられていました。(残りの三参謀(久坂玄瑞、寺島忠三郎、木島又兵衛)は禁門の変で戦死)

参考:『維新史』四p178-181
関連:■「開国開城」30. 第一次幕長戦争■テーマ別元治1第一次幕長戦

◆11/13へ  ◆11/16へ

「今日」トップ 元治1年11月 テーマ別日誌 事件:開国-開城 HP内検索 HPトップ