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元治1年11月28日(1864年12月.24日)
【京】芸州から帰京した肥後藩士、留守居役上田久兵衛に、征長総督の和議論の裏に西郷隆盛がいることを知らせる
【芸州】征長総督徳川慶勝、芸州藩に命じ、長州藩の恭順実行を同支族吉川経幹に促させる

☆京都のお天気:晴天気粗似昨日 (嵯峨実愛日記)

>薩摩藩への嫌疑
【京】元治元年11月28日、肥後藩留守居役上田久兵衛は、芸州から上京してきた肥後藩士からの話で、征長総督の「和議之論」の裏には薩摩藩西郷吉之助(「[奸賊」)がいることを知りました。
「薩州大島吉之助(奸賊ナリ」)、私怨を捨周旋なとヽ申す事にて、筑前喜多方勇平一同相働、督府之下帯、金之鯱と勘合不申、言語同断の模様、永井大監(=大目付永井尚志)御存意一々相立不申、土崩瓦解の勢」

久兵衛は、11月上旬頃から、「薩の姦計」を疑っており、同月17日には、中川宮から小松帯刀の「反復の計策」を打ち明けられ、19日付の国許への書状で、小松帯刀を「天下をませく」る「悪キ奴ツ」と批判していました(こちら)

<ヒロ>
ちなみに、久兵衛は、薩摩藩には、肥後と薩摩の連携を阻害する「奸吏」とみなされています。お互い様なんですね〜。

参考:11月28日付上田久兵衛書簡『幕末の京都の政局と朝廷』p80(2018/9/9)
関連:テーマ別元治1■薩摩藩の朝幕離間策・嫌疑

>第一次幕長戦
■長州恭順
〇総督府の動き
【芸州】元治元年11月28日、征長総督徳川慶勝は、芸州藩に命じ、長州藩の恭順三条件の実行(@長州征討令に対する請書の提出、A山口新城の破却、及びB亡命五卿の引き渡し)を同支族吉川監物(経幹)に促させました。(綱要)

このうち、特に、五卿の引き渡しが難航していました。長州藩内の急進派諸隊が、解散を命じられた後、五卿を奉じて長府に屯集し、五卿の移転を拒んでいたからです。

関連:テーマ別元治1■第一次幕長戦へ(元治1)(2018/9/9)

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