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元治1年11月30日(1864.12.28)
 【京】天狗西上:朝廷、西上する元水戸浪士鎮定のための禁裏守衛総督一橋慶喜の出陣内願を許可

◆11/28【広島】征長総督徳川慶勝、芸州藩に命じ、長州藩の恭順実行を同支族吉川経幹に促させる
◆11/29(【京】禁裏守衛総督一慶喜、書を上り、西上する元水戸浪士鎮定の出陣を内願/【小倉】越前藩、長州処分・五卿処置の藩論を決し、藩士を征長総督府に派遣。/【長州】諸隊、書を藩世子毛利広封に呈し、五卿移転に反対。


☆京都のお天気:晴(嵯峨実愛日記)
>天狗西上
【京】元治元年11月30日、 朝廷は、禁裏守衛総督一橋慶喜の嘆願により、西上中の元水戸浪士鎮定のための出陣を許し、降伏する場合は相当の取り扱いをするよう達しました。
常野脱走之浮浪共押寄、帝都へ迫近候に付、内願之趣、被聞召候。就而は早々出馬、処置可致御沙汰候事。
  但降伏致候者は、相当取計可致候事

最初、朝廷は、慶喜の出陣は却って人心を動揺させるとして、出陣を却下しました。慶喜を召し出してその旨を伝えたところ、慶喜が承知せず、重ねて重ねて懇請したので、翌日午の刻(午前3時半頃)になって、ようやく出陣を許されたそうです。許してもらえなくては身の置き所がなく、切腹するしかない、というようなことまで言ったとか。孝明天皇も、本心では、慶喜が京都を離れることを歓迎しなかったところ、おして勅許したそうです。

<天狗・諸生の乱、この頃までの簡単な動き>
3月 ・尊攘激派藤田小四郎ら、即時鎖港を求めて筑波で挙兵。(筑波勢)
4月 日光大平山に屯集。因幡・備前両藩主に攘夷の先鋒となる勅願を依頼。
・水戸藩江戸藩邸(武田耕雲斎ら尊攘激派が掌握)による説得(4〜5月)。効果なし
・朝廷、将軍徳川家茂に横浜鎖港攘夷を命じる(4/20)
5月 ・水戸城内、反天狗の諸生党(市川派ら門閥派・一部の尊攘鎮派)が激派を攻撃
・筑波へ転陣。軍資金強要・略奪
・諸生党が江戸藩邸の激派排斥のため、水戸を発し、南上。
6月 ・江戸藩邸で激派失脚、市川派要職に復活。(耕雲斎は水戸で慎・隠居)
・軍資金強要・略奪が続く
・政事総裁職松平直克、争乱の根本は横浜鎖港の遅延であると考え、鎖港反対の幕閣更迭を進言(6/3)。水戸藩主徳川慶篤激怒。直克、登城をやめて引き籠る。
・幕府、諸藩に出兵を命令
・激派・鎮派、江戸藩邸の刷新のため、南上。
・天狗追討反対(横浜鎖港推進)の直克、政事総裁職罷免。6〜7月、鎖港消極派(開国派でほとんどが天狗追討派))が次々に幕閣に入る。
7月 ・筑波勢、追討諸藩と交戦
・江戸藩邸、市川派(諸生党)を更迭。
・市川派(諸生党)、水戸城を占拠。
8月 ・筑波勢、追討諸藩と交戦
・水戸藩主名代・宍戸藩主松平頼徳、市川派(諸生党)鎮定のため、鎮派とともに水戸へ出陣(大発勢)。耕雲斎ら激派も合流こちら)
・常野追討軍(田沼意尊)江戸を出立。
・市川派(諸生党)、頼徳の水戸城入りを拒む。頼徳・大発勢、市川派(諸生党)と交戦
・筑波勢、大発勢を応援して市川派(諸生党)と交戦。
・幕軍、諸生党に合流。
・那珂湊に後退。
9月 ・那珂湊で交戦。
・田沼意尊、水戸城(市川派/諸生党支配)に本陣を置く。頼徳を召喚。
・頼徳、大発勢の一部とともに出頭。(しかし事情説明はさせてもらえず)
10月 ・頼徳、幕府から切腹を命じられる。
那珂湊で交戦
・大発勢投降(追討軍中の水戸藩鎮派(戸田銀次郎ら)の説得)
・武田耕雲斎、藤田小四郎ら、京都の一橋慶喜を頼って嘆願するために西上を決定。
11月 ・武田耕雲斎・藤田小四郎ら1,000余名、西上開始。

幕軍への投降を選ばなかった武田耕雲斎らは、在京している主君筋の一橋慶喜を介して朝廷に攘夷の素志を訴えるために、西上をしていました。(慶喜への嘆願の旨は、慶喜の実父でもある亡き烈公の遺志を継いで攘夷を行おうとするも派閥党争で阻まれ、却って讒言を受けて幕府に追討されるようになったが、彼らの素志は攘夷で、ただ朝廷と幕府に尽くしたいと願っていることを理解してほしい、というものです)。諸藩には幕府から追撃が命令されていたため、ときには間道を通るなど、困難な行軍だったようです。(小説ですが、吉村昭さんの「天狗争乱」はこの間の苦労が胸に迫ります)。

天狗党の西上の情報は、11月末には京都に届きました。在京水戸藩士(本圀寺党)は、元々彼らの同志でした。彼らを他藩に討ち取らせては藩の面目に関わるので水戸藩のみで討ち取り、かつ寛大な処分を得させようと、慶喜に追討を働きかけました。これを受けた慶喜は、前29日に出陣を内願していました。
此度、常野浮浪脱走之徒、多人数中山道筋罷登り、不容易模様に相聞、此上万一帝都へ相迫候様之儀御座候ては、職掌に取り恐入候のみならず、右之内私実家之家来共交り候哉に候得は、別て不相済次第に付、江州路辺迄、早々出張、追討仕度奉存候間、何卒御暇被成下候様奉内願候。
  十一月          一橋中納言

<ヒロ>
慶喜は、後年、このときのことをこう振り返っています。
・・・今度かくかくのわけで闕下へはいって嘆願するということだが、一体その者が罪のあるものかないものか。何しろ情実はある。いろいろ情実はあるけれども既に幕府の兵と戦ってみると、どうも罪なしというわkにはいくまいというところで、どうにも仕方がないということになったのだ。・・・どうも情実もあり、いろいろだけれども、幕府の兵と戦ってみれば、すなわち幕府へ敵対をしたのだ。どうにも情実はあるけれども、致し方がないということになったのだ。それで私の考えには、もしどうあってもいかなければ、武田耕雲齋も知ったものだし、□□をあげて申上げねばならぬとして説くつもりであった。そうして片をつけようという見込みで出たんだ。

「情実」という言葉が何度も出てくるのですが、西上組の領袖は元水戸藩執政武田耕雲斎で、慶喜が文久3年に上洛したとき、是非相談相手にと水戸藩から借り受けていたくらい関係の深い人物でした。この争乱が水戸内訌に収まっているうちは、耕雲斎らに同情的で、市川派を「奸」とみなし、実兄で藩主の慶篤が彼らに取り込まれていることを嘆いていました(こちら)。

ただ、慶喜には、幕府から受けている自身への嫌疑を晴らすためにも、討って出るしかないという気持ち(自己保身)もあったのでは・・・と思います。

参考:『徳川慶喜公伝』3p99、『徳川慶喜公伝 資料篇』二p212,213、『昔夢会筆記』p86−87、『嵯峨実愛日記』p80-81、12月4日付上田久兵衛書簡『幕末の京都の政局と朝廷』p86(2018/9/8, 9/14)
関連:■「幕末水戸藩」主要事件元治1年■テーマ別元治1■水戸藩/天狗諸生争乱

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