「今日」トップ 元治1年11月 テーマ別日誌 事件:開国-開城 HP内検索 HPトップ
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◆11/28【広島】征長総督徳川慶勝、芸州藩に命じ、長州藩の恭順実行を同支族吉川経幹に促させる ◆11/29(【京】禁裏守衛総督一慶喜、書を上り、西上する元水戸浪士鎮定の出陣を内願/【小倉】越前藩、長州処分・五卿処置の藩論を決し、藩士を征長総督府に派遣。/【長州】諸隊、書を藩世子毛利広封に呈し、五卿移転に反対。 ☆京都のお天気:晴(嵯峨実愛日記) >天狗西上 【京】元治元年11月30日、 朝廷は、禁裏守衛総督一橋慶喜の嘆願により、西上中の元水戸浪士鎮定のための出陣を許し、降伏する場合は相当の取り扱いをするよう達しました。
最初、朝廷は、慶喜の出陣は却って人心を動揺させるとして、出陣を却下しました。慶喜を召し出してその旨を伝えたところ、慶喜が承知せず、重ねて重ねて懇請したので、翌日午の刻(午前3時半頃)になって、ようやく出陣を許されたそうです。許してもらえなくては身の置き所がなく、切腹するしかない、というようなことまで言ったとか。孝明天皇も、本心では、慶喜が京都を離れることを歓迎しなかったところ、おして勅許したそうです。 <天狗・諸生の乱、この頃までの簡単な動き>
幕軍への投降を選ばなかった武田耕雲斎らは、在京している主君筋の一橋慶喜を介して朝廷に攘夷の素志を訴えるために、西上をしていました。(慶喜への嘆願の旨は、慶喜の実父でもある亡き烈公の遺志を継いで攘夷を行おうとするも派閥党争で阻まれ、却って讒言を受けて幕府に追討されるようになったが、彼らの素志は攘夷で、ただ朝廷と幕府に尽くしたいと願っていることを理解してほしい、というものです)。諸藩には幕府から追撃が命令されていたため、ときには間道を通るなど、困難な行軍だったようです。(小説ですが、吉村昭さんの「天狗争乱」はこの間の苦労が胸に迫ります)。 天狗党の西上の情報は、11月末には京都に届きました。在京水戸藩士(本圀寺党)は、元々彼らの同志でした。彼らを他藩に討ち取らせては藩の面目に関わるので水戸藩のみで討ち取り、かつ寛大な処分を得させようと、慶喜に追討を働きかけました。これを受けた慶喜は、前29日に出陣を内願していました。
<ヒロ> 慶喜は、後年、このときのことをこう振り返っています。
「情実」という言葉が何度も出てくるのですが、西上組の領袖は元水戸藩執政武田耕雲斎で、慶喜が文久3年に上洛したとき、是非相談相手にと水戸藩から借り受けていたくらい関係の深い人物でした。この争乱が水戸内訌に収まっているうちは、耕雲斎らに同情的で、市川派を「奸」とみなし、実兄で藩主の慶篤が彼らに取り込まれていることを嘆いていました(こちら)。 ただ、慶喜には、幕府から受けている自身への嫌疑を晴らすためにも、討って出るしかないという気持ち(自己保身)もあったのでは・・・と思います。 参考:『徳川慶喜公伝』3p99、『徳川慶喜公伝 資料篇』二p212,213、『昔夢会筆記』p86−87、『嵯峨実愛日記』p80-81、12月4日付上田久兵衛書簡『幕末の京都の政局と朝廷』p86(2018/9/8, 9/14) 関連:■「幕末水戸藩」主要事件元治1年■テーマ別元治1■水戸藩/天狗諸生争乱 |
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