「今日」トップ 元治1年11月 テーマ別日誌 事件:開国-開城 HP内検索 HPトップ
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◆11/25【天狗西上】幕府、京都守護職松平容保に、浪士武田正生等の西上を報じ、京地の警守に備えさせる/【小倉?】唐津藩主小笠原長国、征長副将松平茂昭に、軍威を以て長州藩に開城を迫るべきを建言. ☆京都のお天気:雨下 (嵯峨実愛日記) >第一次幕長戦 【京】元治元年11月26日、朝廷は、長州藩の処置を議論しましたが、結論は出ませんでした。(綱要) 11月18日に征長総督府は、禁門の変出陣の元三家老の首級を改め、長州藩主父子恭順の情及び進撃猶予の令達を朝廷・幕府に上申していました(こちら)。それを議論したのだと思われます。 >薩摩藩の動き 【京】元治元年11月26日、在京薩摩藩家老小松帯刀は国許に書を送り、京都の情勢を知らせました。 〇慶喜に政変を使嗾 これより先、禁裏守衛総督一橋慶喜を訪れた小松は、幕府が一会桑の江戸呼び戻しを図っており、朝廷を以前のように軽蔑するようになるだろう、それを防ぐには、老中の入れ替えか、さもなくば諸藩を頼み、慶喜が朝命を奉じて天下の大政を変えるか、どちらかしかないと慶喜に述べたそうです。 (小松帯刀書簡の関連部分のてきとう訳)
<経緯> 慶喜の江戸召喚の噂は、10月下旬には京都に届いていて、24日には、京都守護職松平容保が、老中に直書を送って、召喚はありえないことを主張していました(こちら)。小松は、11月6日に国許に送った書状では、慶喜の様子について、「矢張御引込にて何事も関係無之向」で、ただ、時々参内はしていると記していました。幕府のさらなる嫌疑を避けていたのでしょうか・・・。しかし、幕府は、慶喜を江戸へ召喚することを決め、23日には老中松前崇広を、長州処分を名目として西上させていましたこちら(公布は19日)。 <ヒロ> 悪魔のささやきですねえ。これぞThe「反復(反覆)之計策」です(こちら)。小松帯刀は、禁門の変の際に慶喜と距離を縮めていたからこそ、言えたことではありますが。 一橋家は将軍の家族なので、固有の家臣がいません。そして実家の水戸藩は内部抗争で頼みにならない(それどころか、幕府に敗れた元水戸藩士が京都目指して西上中)。幕府から嫌疑をかけられている慶喜に対して、大藩をの支援の下、慶喜が朝命を奉じて天下の大政を変える・・・、こんな危険なことを、この時期に、慶喜に選択肢として提案していたとは。 一橋派の夢再び?今の幕府には、安政の大獄を起こすことは不可能、自分たちには対抗する力があるという自負でしょうか。でも、慶喜も薩摩藩が薩摩のいうなりになるとは思えないんですが・・・。征長総督徳川慶勝を操れたので、慶喜も同じように操れると思っていたのでしょうか?(そして、この構想は慶喜大嫌いな西郷とは共有されていたんですしょうか???) それとも、こういう提案をすることで、慶喜を動揺させ、さらに在京幕府と江戸の幕府を離間させることを狙ったんでしょうか。また、会津藩や桑名藩が当然猛反対するでしょうから、一会桑にくさびを打ち込もうというのかもしれない・・・(薩摩藩にとっては、会津藩は既に仮想敵みたいなものなのでこちら)。でも、かえって、慶喜から薩摩を危険視される可能性を考えたりしなかったんでしょうか? 肥後藩留守居役上田久兵衛は、11月上旬頃から、「薩の姦計」を疑っており、同月17日には、中川宮から小松帯刀の「反復の計策」を打ち明けられ、19日付の国許への書状で、小松帯刀を「天下をませく」る「悪キ奴ツ」と批判していましたが(こちら)、慶喜へのこの発言などは、朝幕協調路線の肥後藩からみると確かにそうですよね。 〇勝海舟の私塾の土佐浪士 また、江戸に召喚された軍艦奉行勝海舟の私塾にいた土佐浪士たちを、西郷と相談の上で、大阪藩邸で匿っていることも知らせました。 (小松帯刀書簡の関連部分のてきとう訳)
参考:『玉里島津家史料』p717-720、11月28日付上田久兵衛書簡『幕末の京都の政局と朝廷』p80(2018/9/9) 関連:テーマ別元治1■一会(桑)、対立から協調・在府幕府との対立へ■一橋慶喜の評判 ■薩摩藩の朝幕離間策・嫌疑■勝海舟@元治1年 【京】元治元年11月26日、薩摩藩士海江田武次は国許の大久保一蔵に、会津藩士から、藩主松平容保の将軍進発のための東下を相談され、反対したことを知らせました。 (てきとう訳)
<ヒロ> 海江田は、会津藩から相談を受ける程度には(みせかけかどうかはともかく)「信義の交わり」をしているのですね。それにしても、なぜ、海江田は反対したんでしょう?容保が京都からいなくなってくれた方が、薩摩藩には都合がいい気がするのですが・・・。(ちなみに、同じ日に、やはり在京の高崎五六が吉川家家臣福井に書を送っていて、会津藩あたりが間者を放っている・・・と知らせていて、既に敵対してるような様子です)。薩摩藩が、表の顔と裏の顔を使い分けていて、海江田には会津と親しくさせているっていうことでしょうか。まさか、海江田にうっかりさんな過去があるので、小松帯刀や高崎五六の動きを知らされていないっていうことはないと思うのですが・・・。 また、容保東下の件は、会津藩といい関係にある肥後藩には相談されなかったようなのに(肥後藩留守居役上田久兵衛は、二条関白から、内密な話としてきいている)、薩摩藩に相談があったというのもちょっと不思議です。(海江田の情報源って誰なのか、気になります) 参考:『忠義公史料』p610(2018/9/9) |
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