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元治1年11月26日(1864.12.24)
【京】朝議、長州藩の処置を議す。決せず。
 【京】小松帯刀、国許に書を送り、一橋慶喜に老中取り換えか諸藩・朝廷と連携した政変を使嗾したこと等を報じる。
【京】薩摩藩海江田武次、は国許の大久保一蔵に、会津藩士から、藩主松平容保の東下を相談され、反対したことを知らせる。

◆11/25【天狗西上】幕府、京都守護職松平容保に、浪士武田正生等の西上を報じ、京地の警守に備えさせる/【小倉?】唐津藩主小笠原長国、征長副将松平茂昭に、軍威を以て長州藩に開城を迫るべきを建言.

☆京都のお天気:雨下 (嵯峨実愛日記)

>第一次幕長戦
【京】元治元年11月26日、朝廷は、長州藩の処置を議論しましたが、結論は出ませんでした。(綱要)

11月18日に征長総督府は、禁門の変出陣の元三家老の首級を改め、長州藩主父子恭順の情及び進撃猶予の令達を朝廷・幕府に上申していました(こちら)。それを議論したのだと思われます。

>薩摩藩の動き
【京】元治元年11月26日、在京薩摩藩家老小松帯刀は国許に書を送り、京都の情勢を知らせました
〇慶喜に政変を使嗾
これより先、禁裏守衛総督一橋慶喜を訪れた小松は、幕府が一会桑の江戸呼び戻しを図っており、朝廷を以前のように軽蔑するようになるだろう、それを防ぐには、老中の入れ替えか、さもなくば諸藩を頼み、慶喜が朝命を奉じて天下の大政を変えるか、どちらかしかないと慶喜に述べたそうです


(小松帯刀書簡の関連部分のてきとう訳)
先日、橋公へ参り、関東の形勢について思召しを伺いたいと申し上げたところ、至極御配慮の御模様だった。どのような御処置になるか御尋ね申上げたところ・・・今の役人ではとても対応できず、板倉(勝静)でも派遣してはどうかと考えているとのお話であった。そこで、拙者から<只今の形勢においては、おそらく、「橋公・会津・桑名辺之処京師曳取」の幕命が発せられ、そうなれば朝廷は決して御差し止めになるので混乱となることが予測されます。その上でいよいよ「幕威を張り、以前之通朝廷を軽蔑」すると案ぜられます。今のうちに「閣老辺御切替」になるか、さもなくば「諸侯を御頼、橋公之御手限にて朝命を奉じ、天下之大政被相替」か、この二つ以外に見込みはございません。今になって召し置かれては、いたずらに光陰が過ぎ、海軍も防御も調わず、どうやって皇国のおためになる筋合いがごじましょうか>と申上げた。すると、なるほどもっともで、いずれどうかならねばならぬので、勘考しようとのことであった。

・・・会(=会津)なども、頻りに閣老諏訪公の御召しを望み・・・色々尽力しているようだが、此方には先何も関係致さず、適当に返答をもいたして置いている。何もかも、征長等が終った後、大島(西郷)が(薩摩に)下って上の思召しを伺うつもりであるので、その上でと差し控えている。もちろん、摂海に外夷が到来すれば別段のことだが、まずは差し控えている。本国寺水人(=本圀寺詰めの水戸藩士)もまず治まっているが、薩を憎んでいるようである。土・会・壱条(一条家?)等も未だたしかに分からない。

<経緯>
慶喜の江戸召喚の噂は、10月下旬には京都に届いていて、24日には、京都守護職松平容保が、老中に直書を送って、召喚はありえないことを主張していました(こちら)。小松は、11月6日に国許に送った書状では、慶喜の様子について、「矢張御引込にて何事も関係無之向」で、ただ、時々参内はしていると記していました。幕府のさらなる嫌疑を避けていたのでしょうか・・・。しかし、幕府は、慶喜を江戸へ召喚することを決め、23日には老中松前崇広を、長州処分を名目として西上させていましたこちら(公布は19日)。

<ヒロ>
悪魔のささやきですねえ。これぞThe「反復(反覆)之計策」です(こちら)。小松帯刀は、禁門の変の際に慶喜と距離を縮めていたからこそ、言えたことではありますが。

一橋家は将軍の家族なので、固有の家臣がいません。そして実家の水戸藩は内部抗争で頼みにならない(それどころか、幕府に敗れた元水戸藩士が京都目指して西上中)。幕府から嫌疑をかけられている慶喜に対して、大藩をの支援の下、慶喜が朝命を奉じて天下の大政を変える・・・、こんな危険なことを、この時期に、慶喜に選択肢として提案していたとは。

一橋派の夢再び?今の幕府には、安政の大獄を起こすことは不可能、自分たちには対抗する力があるという自負でしょうか。でも、慶喜も薩摩藩が薩摩のいうなりになるとは思えないんですが・・・。征長総督徳川慶勝を操れたので、慶喜も同じように操れると思っていたのでしょうか?(そして、この構想は慶喜大嫌いな西郷とは共有されていたんですしょうか???)

それとも、こういう提案をすることで、慶喜を動揺させ、さらに在京幕府と江戸の幕府を離間させることを狙ったんでしょうか。また、会津藩や桑名藩が当然猛反対するでしょうから、一会桑にくさびを打ち込もうというのかもしれない・・・(薩摩藩にとっては、会津藩は既に仮想敵みたいなものなのでこちら)。でも、かえって、慶喜から薩摩を危険視される可能性を考えたりしなかったんでしょうか?

肥後藩留守居役上田久兵衛は、11月上旬頃から、「薩の姦計」を疑っており、同月17日には、中川宮から小松帯刀の「反復の計策」を打ち明けられ、19日付の国許への書状で、小松帯刀を「天下をませく」る「悪キ奴ツ」と批判していましたが(こちら)、慶喜へのこの発言などは、朝幕協調路線の肥後藩からみると確かにそうですよね。

〇勝海舟の私塾の土佐浪士
また、江戸に召喚された軍艦奉行勝海舟の私塾にいた土佐浪士たちを、西郷と相談の上で、大阪藩邸で匿っていることも知らせました。

(小松帯刀書簡の関連部分のてきとう訳)
神戸の勝方(=勝の海軍塾)にいた土佐人に、外国船を借用した航海の企てがあり、坂元龍馬と申す人が関東へ下って、借入れの交渉を成功させたという。同じ土佐藩の高松太郎と申す人が、帰国命令を受けたが、土佐国の政治向きは甚だ厳しく、、不法の取り扱いもあり、帰国すなわち命を絶つことになるという。右の船が来れば乗り込むので、それまでの潜居の相談があり、余計なことながら、これら浪人体の者をもって、航海の手先に使えばよいと、西郷などが滞京中に談判もして置いたので、大坂屋敷に内々に潜伏させている・・・(後略)

参考:『玉里島津家史料』p717-720、11月28日付上田久兵衛書簡『幕末の京都の政局と朝廷』p80(2018/9/9)
関連:テーマ別元治1■一会(桑)、対立から協調・在府幕府との対立へ一橋慶喜の評判 ■薩摩藩の朝幕離間策・嫌疑勝海舟@元治1年 

【京】元治元年11月26日、薩摩藩士海江田武次は国許の大久保一蔵に、会津藩士から、藩主松平容保の将軍進発のための東下を相談され、反対したことを知らせました。

(てきとう訳)
江戸表の件は、大意を別冊で申し上げたので・・・ご覧になってほしい。その後、御進発の件は、いよいよ「増御因循之姿」とみえ、会津などは、御職分のこともあるので、御直書をたびたび遣わされ、精々尽力もあったが、無益なこととなり、この上は、会津候御東下になって「これきりの御尽力」の外はないなど、会の臣下は決心した様子で、私へも相談があったので、御不同意だと申し述べたところ、「会津の身としてハ外に見込も無之、実に赤面之至、如何いたし候ハヽ宜敷哉」などと「甚歎息憤激」していた(こちら)。朝廷や一橋公などにおいても、当分は手を空しくされている御様子。長征の方は、吉川など誠に「深切」な志ゆえ、よき方向になり、これは実に御同慶である。・・・当地にては、何も変わることはなく、至って「鎮静」で、当分は諸藩へ「信義の交わり」をしているくらいである・・・。

<ヒロ>
海江田は、会津藩から相談を受ける程度には(みせかけかどうかはともかく)「信義の交わり」をしているのですね。それにしても、なぜ、海江田は反対したんでしょう?容保が京都からいなくなってくれた方が、薩摩藩には都合がいい気がするのですが・・・。(ちなみに、同じ日に、やはり在京の高崎五六が吉川家家臣福井に書を送っていて、会津藩あたりが間者を放っている・・・と知らせていて、既に敵対してるような様子です)。薩摩藩が、表の顔と裏の顔を使い分けていて、海江田には会津と親しくさせているっていうことでしょうか。まさか、海江田にうっかりさんな過去があるので、小松帯刀や高崎五六の動きを知らされていないっていうことはないと思うのですが・・・。

また、容保東下の件は、会津藩といい関係にある肥後藩には相談されなかったようなのに(肥後藩留守居役上田久兵衛は、二条関白から、内密な話としてきいている)、薩摩藩に相談があったというのもちょっと不思議です。(海江田の情報源って誰なのか、気になります)

参考:『忠義公史料』p610(2018/9/9)

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