■第3回朝廷参豫会議 【京】文久4年1月13日(1864年2月20日)、薩摩藩国父島津久光が朝議参豫を命ぜられました。同時に、従四位下に叙せられ、左近衛権少将に任ぜられました。 この日、参豫諸侯(一橋慶喜・松平春嶽・伊達宗城)が参内して、11日の参内の折に下問された件について上答しました。(松平容保・山内容堂は欠席)
これにより、久光の朝議参豫とそれに伴う従四位下・少将の叙任が決定しました。ようやく、参豫会議はフルメンバーが揃ったことになります。(ただし、実際の朝議には、容堂は第1回目から、また容保は第2回(1月11日)以降は参豫しなかったので、フルメンバーが揃ったことはありません) なお、この日の朝議は、新たな議事はありませんでした。 <ヒロ> 「島津久光文久三年癸亥上京日録」」(『玉里島津家史料』)によれば、伝奏野宮定功から朝議参豫と叙任の勅旨が薩摩藩側に伝えられたのは夜分だったので、受領は翌14日ということにしたようです(即日返答をすべき筋だからなんでしょうか?)。久光自身が請けたこと及びお礼を伝えに伝奏屋敷を訪れるのは14日になりました。『島津久光公実紀』では朝議参豫と叙任の件が14日とされていますが、そのためだと思います。 久光の朝議参豫就任・従四位下叙任は、大阪に滞在する将軍家茂の出立・伏見城入城(1月14日)の直前に行われました。どうも、将軍が京都にやってくるまでに片をつけたいという朝廷側の意向がみえるきがします。伝達が13日の夜分になるというあわただしさも、そのことを暗に語っているような気がします。 表:これまでの朝廷参豫会議出席者と議題
関連:■開国開城「政変後の京都−参豫会議の誕生と公武合体体制の成立」 ■テーマ別元治1「朝議参豫の動き」 参考:『玉里島津家史料』ニp743、『続再夢紀事』ニp348-349、『維新史料綱要』五(2007.12.28, 2008.12.27) |
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