■将軍再上洛 【伏見】文久4年1月14日(1864年2月21日)、将軍家茂は大坂を出立し、淀川を水路伏見に向かい、伏見城に入りました。 関連:■開国開城「政変後の京都−参豫会議の誕生と公武合体体制の成立」■テーマ別元治1「将軍再上洛へ」 参考:『徳川慶喜公伝』3(2002/2/27) ■朝議参豫の動き 【京】文久4年1月14日(1864年2月21日)、島津久光は伝奏野宮定功を訪ね、前夜に達された従四位下・左近衛少将推任叙を請けることを言上しました。 その後、久光は近衛家・中川宮家・徳大寺家・二条家にもお礼を言いに訪ねました。また、午後には土佐藩邸を訪ねましたが、そこに松平春嶽・伊達宗城も集まっていました。 ■テーマ別元治1「朝議参豫の動き」 参考:『玉里島津家史料』ニp743、『伊達宗城在京日記』p307(2007.12.29) <余談by ヒロ> ■「剛」より「鼻公」へ 伝奏野宮定功はこの日慶喜宛に久光が勅旨を請けたことを書面で知らせており、慶喜はすぐさま、その写し?を松平春嶽に送っているのですが・・・なんと、送り状の宛名(春嶽)は「鼻公」、送り主(慶喜)は「剛」と署名されています!(『続再夢紀事』ニ) この「鼻公」←「剛」の組み合わせはこの時期の書簡に結構みられます。慶喜の方の「剛」は剛情の「剛」だと思います。(文久3年10月の容堂宛春嶽書簡でも慶喜のことを「剛情公」と記しています(こちらなど)・・・慶喜自身、そういう自覚があったんでしょうか(笑)、それとも春嶽から常々いわれてたとか?)・・・でも、春嶽の「鼻」はなぜ〜??(肖像写真をみると鼻が長い気がするのでそのせい?よくわかりませんが、なんとなく失礼な気もするんですが・・・そういうことを書ける仲ということ???誰か情報をお持ちの方がいらしたら、是非連絡帳まで!m(..)m) 書簡の宛名・署名、書簡中のあだ名はいろいろ面白いので、豆知識にまとめたいです。 (2007.12.29) |
2月の「幕末京都」 幕末日誌文久4/元治1 開国-開城 HP内検索 HPトップ
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