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文久4年2月10日(1864年3月17日)
【京】守護職更迭:幕府、容保の大老任命を止め、陸軍総裁職任命を決定
【京】将軍、容保に五万石加増の沙汰(容保辞退)
【京】参豫山内容堂、朝廷に帰藩を請う
【京】幕府、戸田忠恕・山陵奉行戸田忠至に刀一口下賜/
【京】市中の警衛は幕府の専管とする

■容保の守護職更迭問題
【京】文久4年2月10日(1864.3.17)、幕府は、容保の征長副将任命に伴う守護職更迭後の役職を「陸軍総裁職」とすることを決めました。

<おさらい>
前日の幕議では、容保を大老職に任ずることになっていました(こちら)が、この日、慶喜から相談された春嶽は、大老は総裁職の下の地位であるので不適当だと反対し、文久3年に阿波藩主蜂須賀斉裕(はちすか・なりひろ)に陸軍総裁を命じた例に照らし合わせて、陸軍総裁職はどうかと提案しました。慶喜は妙案だと賛成し、老中らも同意したため、容保に陸軍総裁職を命じることが決まりました。

参考:『続再夢紀事』ニp412-413(2010/3/31)
関連:■テーマ別元治1 「会津藩の守護職更迭問題

■会津藩の賞揚
【京】文久4年2月10日(1864年3月17日)、将軍家茂は会津藩主松平容保に五万石加増の沙汰を下しました。

このとき、容保は風邪のため登城できず、代理の家老神保内蔵助を登城させました。将軍は神保を黒書院に召し、直接沙汰を下しました。その書取り(『七年史』)は以下の通り。

昨年上京以来、鎮撫方格別行届、去秋動揺之節(=8.18の政変)も励精尽力、今日に至候は 満足之義付 五万石増遣す。

容保は、加増を「過当」と考え、翌11日、「兼て疲弊仕り候儀に御座候えば、奉職中当て行う一時の御手当ては願い奉り候儀もあるべく御座候えども、御嘉禄の儀は御免成し下されたく願い上げ奉り候」と、書状を以て辞退しました。

<ヒロ>
容保への加増の沙汰は、同年1月29日に春嶽が慶喜に行った会津藩賞揚の3つの提案(こちら)に基づいており、前日の幕議で決定していました(こちら)

参考:『七年史』ニp112-113、『京都守護職始末』2p17(2002/3/17, 2010/3/31)
関連:■テーマ別元治1「会津藩の賞揚
■その他の出来事
【京】幕府、戸田忠恕・山陵奉行戸田忠至に刀一口下賜
【京】市中の警衛は幕府の専管とする
参考:『維新史料綱要』五(2010/3/31)


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