☆京都のお天気:晴(久光の日記より) ■1.27宸翰への請書草案の修正 【京】文久4年2月9日(1864.3.16)、松平春嶽は、1月27日の宸翰の請書草案につき、伊達宗城とも相談の上、文中の「無謀の攘夷ハ仕間敷 叡慮」を訂正するよう、慶喜に申し送りました。 この日の朝、慶喜は春嶽に1月27日の勅諚(こちら)に対する将軍の請書の草案を送り、コメントを求めました。 春嶽は草案の文中に「無謀の攘夷ハ仕間敷 叡慮」とあるのを見て、これは、1月21日の内諭(こちら)にあった文言であり、27日の勅諚にはないので、「不都合」だろうと、宗城と相談の上、その意を伝えるため、家臣の中根雪江を一橋邸に遣わしました。 中根と応対した一橋家家臣の平岡円四郎が慶喜に上記の件を伝えると、慶喜が、「試に修正案を起草せよ」と命じたため、中根は「無謀の攘夷ハ仕間敷 叡慮」を「妄挙仕間敷 叡慮」と修正した請書案を差し出しました。 <ヒロ> 中根の修正案の「妄挙仕間敷 叡慮」は、27日の宸翰の文中の「妄に膺懲(ようちょう)の典を挙んとせは却て国家不測の禍に陥らん事を恐る」という文言からとったものとなります。 参考:『続再夢紀事』ニp410-411(2010/4/11) 関連:■テーマ別元治1「将軍への二度の宸翰」■開国開城「政変後の京都−参豫会議の誕生と公武合体体制の成立」「参豫の幕政参加・横浜鎖港・長州処分問題と参豫会議の崩壊」 ■容保の守護職更迭 【京】文久4年2月9日(1864.3.16)、幕閣は、評議の結果、会津藩主松平容保の加増、征長副将任命、及び守護職更迭/大老任命を決定しました。また、将軍後見職一橋慶喜は、前越前藩主松平春嶽に以前からの内談の通り、守護職就任の心積もりをしておくよう、家臣を介して、伝えました。 一橋家平岡円四郎と面会した越前藩中根雪江から以上の話を聞いた春嶽は、(1)容保の大老職任命については、大老職は政事総裁職の下風に立つことになるので会津はやはり不満だろう、と反対し、(2)自身の守護職就任については、「廟議目下の如く因循」では到底請け難いと述べたそうです。 <ヒロ> ○容保への加増: 容保への加増は、同年1月29日に春嶽が慶喜に行った提案(こちら)が基になっています。 ○大老任命:容保の大老任命は、容保の征長副将任命に伴う措置として考えられました。容保が征長副将を務めることになると京都を不在にするため、守護職を続けることはできません。しかし、このことで容保(会津藩)が不平に思うかもしれないとの危惧する声があり、守護職から大老職への転任を命じることになりました。 容保の征長副将任命(それに伴う守護職更迭)及び春嶽の守護職就任については、同年1月9日に越前藩邸で行われた参豫諸侯会合において、慶喜が発案し、評議の結果、議定されていました(こちら)。会合には、参豫諸侯(山内容堂を除く全員)及び島津久光が出席していました。 参考:『続再夢紀事』ニp410-411(2010/3/30) 関連:■テーマ別元治1「会津藩の守護職更迭問題」「会津藩の賞揚」 【京】文久4年2月9日(1864.3.16)、幕府は江戸にいる老中板倉勝静に上京を命じました。また、京都町奉行永井尚志を大目付に任じました。 参考:『維新史料綱要』五(2010/3/30) 関連:■テーマ別文久3「板倉老中上京問題」 |
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