3月の「幕末京都」 幕末日誌元治1 テーマ別日誌 開国-開城 HP内検索 HPトップ
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☆京都のお天気:陰(久光の日記より) ■長州処分 【京】文久4年2月11日(1864年3月18日)、幕府は征長軍の部署を決定し、関連諸藩に長州処分の内意を通達しました。
幕府は、去る2月8日、参豫諸侯(容保欠席)、中川宮及び関白以下朝廷重臣と評議の結果、長州処分を決定((1)長州支藩及び家老の大坂召喚及び訊問、(2)三条実美らの引渡し、(3)不服従の場合征討)(こちら)していました。 内達の出た征長軍の布陣は以下の通り。
*青色=親藩、緑色=譜代、桃色=外様(但し、下線のある藩は藩主が徳川家血筋) <ヒロ> ●参豫集会の結論との違い これに先立ち、同年1月9日に越前藩邸で行われた参豫集会(こちら)において、征長軍の部署は以下のように議定されていました。
幕府の決定は、将軍名代・副将は参豫集会の結論と同じですが、討手の諸藩の構成がかなり違います。参豫集会の結論と同じなのは、薩摩藩・因幡藩・備前藩・肥後藩の四藩だけです。 もともと、参豫集会では、討手に外様藩を加えるべきだとの議論があり、討手リストの構成は9藩中外様が7藩・譜代が2となっています(但し、外様7藩中2藩は藩主が徳川家の血筋)。それが、幕府の決定では、親藩1、譜代3、外様6(うち3藩の藩主が徳川家の血筋)となりました。外様藩が減って、親藩・譜代藩が増えています。 地域的にみると、参豫集会案は九州勢が多数でしたが、幕府の決定では、中国勢が多数になっています。 ●請書提出前の通達 通達は、将軍が天皇に請書を提出し、天皇がそれを受取る、という正式な手続きが完了するに出されています。同月13日夜の朝廷参豫会議では、中川宮から、請書が提出されてから、征長の内意が発表されていれば、「人心折合都合も宜」かっただろうと指摘され、出席の参豫3名は、自分たちも請書が先の方がよいと度々主張したが、「色々之都合にて手間取」ったのだと答えています(こちら) 参考:『伊達宗城在京日記』p330-332(2010/4/7) 関連:■テーマ別元治1「長州・七卿処分(2)」■開国開城「政変後の京都−参豫会議の誕生と公武合体体制の成立」「参豫の幕政参加・横浜鎖港・長州処分問題と参豫会議の崩壊」 ■容保の守護職更迭・征長副将拝命問題 【京】文久4年2月11日、幕府は容保の守護職を免じ、陸軍総裁職と征長軍副将に任命しました。 この日も、家老神保修理が容保の代理で登城し、老中列座の中、水野忠精老中から、征長副将を仰せ付けるので用意するように、との内命を伝えらました。
また、総裁職松平直克からは、陸軍総裁職の辞令を受け、守護職を免じられました。
●会津藩の藩論 容保は、この件は「至重の義」であるとして、ひとまず幕府に猶予を願い、重臣を集めて意見を述べさせました。家老の横山主税は、これを悦ばず、<去秋の事変(禁門の政変)以来、「長人偏に我と薩州とを仇視すること深」く、我公が征長軍の副将に立てば、彼らの「激怒を増」させるだけで、「帰順の途を絶」つことになろう。「決して国家の幸福にあらざるなり」>」と反対しました。しかし、公用方の広沢富次郎(安任)は、<最近、幕府は「内外多事」に苦しんでいるが、親藩中、「又此任を委ぬべきなし(頼みとなる藩がわが藩のほかにはない)」。だからこそ、幕府は「守護職の重任」を解いて「軍事(ママ)総裁職」に就けようとするに至っている。「其困難想はざる可からず(想像を越えたものである)」。「丈夫、難に赴く、何ぞ辞するを須ひん、唯義の重きに就かん(丈夫は難に進んで赴くべきであって、辞するべきではない)」。ただ義の重さにこたえるべきである)」>と反論し、終には横山も同意したそうです。(『七年史』) <ヒロ> 容保を征長副将(それに伴い守護職更迭)にという話は、容保自身も参加した1月9日の参豫諸侯会合で議定されていたこと(こちら)であり、1月25日の二条城会議においても評議された(と推測される)内容です・・・。これまでに猶予を求めて藩議にかける機会はあったはずですが・・。容保はなぜ今さら「至重の義」だと幕府に猶予を願い、重臣にはかったのでしょうか?(これまで、あまり議論がされなかったのでしょうか?)ナゾです・・・。 ちなみに、容保は、下表のように、文久3年12月30日に参豫を拝命(こちら)した当初は、参豫諸侯の関係する会合(朝議及び諸侯内の集会)に参加していましたが、上記1月9日の会合以降は、朝廷参豫会議、二条城会議、諸侯内の集会のいずれにも参加していません(例外は1月25日の二条城会議ですが、この日は将軍に召し出されて登城しており、その流れでという感じです)。まあ、容保が病がちだったということもあるかもしれませんが、欠席した会合の内容について家臣が行き来することもまれでした。そういうわけで、政事の動きに疎く(情報弱者に)なってしまい、このタイミングで、慌ててしまったのかな・・・という気もします。 表:参豫会議の概容(〜文久4年2月11日)
*** ○おさらい:容保の守護職更迭問題 容保が征長副将として進発することになると、京都守護職は務められなくなります。それを見越しての守護職更迭になります。この件は、容保自身も参加した1月9日の参豫諸侯会合で議定されていたことでした(こちら)。しかし、幕府内には容保(会津藩)が更迭を不平に思うかもしれないとの配慮があり、当初、守護職に代えて大老に任命することを考えていました(こちら)。しかし、春嶽が、大老だと総裁職の下風に立つ位置であると反対したため、阿波藩主蜂須賀斉裕に命じた前例のある陸軍総裁職のポストが用意されたのでした(こちら)。 なお、旧会津藩士山川浩は『京都守護職始末』において、征長副将・陸軍総裁職任命の背景を次のように記しています。 ○征長副将任命の背景
○陸軍総裁職任命の背景
注:陸軍総裁職は新設のポストではありません。この後、13日に任命される軍事総裁職(こちらは新設)と混同しているのかもしれません。 参考:『七年史』ニp113-114、『京都守護職始末(旧)』巻之下p16-17(2001/3/18, 2010/4/7) 関連:■テーマ別元治1「会津藩の守護職更迭問題」 ■春嶽の守護職就任問題 【京】文久4年2月11日(1864年3月18日)、越前藩は、春嶽の守護職拝命にあたって、幕府に参豫諸侯を老中の上に置いて国事を議論する制度(参豫の幕政参加)設立を求めることを議定しました。 容保の征長副将任命に伴い、春嶽が守護職に任命されることは、1月29日の参豫諸候集会(こちら)で合意されており、内々の既定事項でした。2月9日、容保の征長副将任命、及び守護職更迭/大老任命を幕府が決定したことを受けて、慶喜は、春嶽に以前からの内談の通り、守護職就任の心積もりをしておくよう、家臣(一橋家平岡円四郎→越前藩中根雪江)を介して、伝えさせました。中根からこのことを聞いた春嶽は、自身の守護職就任について、「廟議目下の如く因循」では到底請け難いと述べていました(こちら)。 この日、藩の執政以下の諸有司が集会し、いよいよ守護職を命じられたときに、異論なく請けるべきかどうかが話し合われました。その結果、幕府が「例の因循を除」かなければ、例え春嶽が守護職に就いても意味がなく、辞退すべきである、それでも強いて請けよというのであれば、まず「幕府の因循を攻撃破砕」せざるをえないが、「其人存せされば其政行はれさる」ことは勿論であり、この際「参豫の諸侯を閣老の上に置て国事を議する」制度を立てるよう申し立てるべきである、という意見で一同が一致しました。結論を春嶽に言上したところ、大いに嘉納し、この件に関する建議書を起草して、明後13日の登城時に将軍に直々に提出することが決まりました。 <ヒロ> 参豫諸侯を老中の上に置くということは、老中らの評議の場である「御用部屋入り」より、さらに進んだ(幕府にとっては過激な)提案になります。朝廷参豫でもある有力諸侯による公議を幕府の最高意思決定機関としようというわけですから。 また、越前藩の守護職の職掌に対する意識が会津藩とかなり違うことがうかがわれて、面白いですよね。
なお、越前藩の議論で指摘された幕府の「例の因循」とは、横浜鎖港問題や参豫の御用部屋入りについて、幕閣が言を左右にして、参豫らの意見を容れない状況を指すのだと思います。(↓) 参考:『続再夢紀事』ニp409-416 関連:■テーマ別元治1「参豫の幕政参加問題」 ■慶喜vs参豫諸侯 【京】文久4年2月11日(1864.3.18)、参豫諸侯4名(春嶽・容堂・宗城・久光)は、連署して、同じ参豫であり将軍後見職でもある一橋慶喜に、朝旨に基づいて速やかに、「紀律更張・定国之策略」を定め、天下の耳目を一新するよう建言しました。(二条城において春嶽が渡しました)。建言書を読んだ慶喜は、「至極御尤もの御旨意」であると言ったそうです。 実は、このところ、参豫諸侯は「痛く幕府の因循を憂慮」し、「此際一橋中納言殿に憤発せらるゝ様建議」すべきだと申し合わせており、薩摩藩士高崎猪太郎や越前藩士中根雪江らが、この件について4諸侯の間を行き来していました。慶喜に提出した建議書は宗城が起草したもので、宗城の日記には「所存書」と書かれています。 宛名は「宇宙大依頼一橋英明公閣下」とされています。(大仰な表現ですが、期待の顕れ?それとも皮肉をこめて?) 建言書のポイントは以下の通り。
<ヒロ> 要するに、二度の宸翰で示された「朝旨」、「国家維持・外夷之御処置」の「大策神略」に基づいて、「紀律更張・定国之策略」を定め、天下の耳目を一新するような処断をすることを求めているわけですが、翻せば、現状を「幕政真に因循」だと批判している文章となります。 具体的には何を「因循」だと問題視しているのでしょうか? 二度の宸翰で示された「国家維持・外夷之御処置」の「大策神略」のうち、長州処分については、幕府・参豫諸侯・朝廷間で合意ずみですから、ここで、参豫諸侯が問題視しているのは、この時期、幕府の間で、大きく意見が対立していた二事((1)横浜鎖港問題(対外方針の国是決定)及び(2)参豫の御用部屋入り問題(幕政改革−公議政体制度づくり))のことだと思います。 慶喜もこの二事について、幕閣の方針に同調しています。慶喜が、参豫でありながら幕府寄りで、彼の「憤発」が足りないため、「因循」に至っているのだと見られているようで、だから参豫諸侯全員が連署で幕府に建議・・・ではなく、慶喜に対して残りの諸侯(容保除く)が建議をする・・・という形式になったのだと思います。 参考:『続再夢紀事』ニp409-416、『伊達宗城在京日記』p329-330(2010/4/7) 関連:■テーマ別文久2「国是決定:破約攘夷奉勅VS開国上奏」、同文久3「横浜鎖港問題(1)」、同元治1「横浜鎖港問題(2)■テーマ別元治1参豫会議解体:参豫VS慶喜/幕府 【京】文久4年2月11日(1864.3.18)、長州藩士宍戸九郎兵衛が密かに入京しました。 参考:『維新史料綱要』五(2010/4/7) |
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