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文久4年1月29日(1864年3月7日)
【京】山陵補修の功により、将軍家茂に従一位推叙の宣下/
宇都宮藩主戸田忠恕に従四位下・山陵奉行戸田忠至を大名格に/
【京】春嶽、慶喜に容保への褒賞(朝廷参議・天皇からの書付、加増)周旋、
容堂を外して他の参豫諸侯と会合することを求める

★京都のお天気:快晴(久光の日記より)

■将軍家茂の位階昇進
【京】文久4年1月29日、朝廷は、山陵修補の功を称し、将軍家茂に従一位推叙を宣下しました。

また、山陵修補を幕府に建言した宇都宮藩主戸田忠恕(越前守)を従四位下に叙し、山陵奉行戸田忠至(大和守)を大名格に列し、刀剣一口を与えました。

■参豫の動き

○会津藩の賞揚
【京】同日、松平春嶽は、8.18の政変における松平容保/会津藩の功について、朝幕賞揚(参議任命・天皇からの書付、役地加増)を周旋するよう慶喜に求めました。

同日付の慶喜宛春嶽書簡の概要は以下の通り。

<昨夜、芋(=久光)の申し上げた会(=会津藩)の件ですが、実に8月18日の政変は、素より天皇の御決断・中川宮の御尽力は申すに及びませんが、「会なければ此暴論を厭倒して正議に復せしむ」事は恐らくありえなかったでしょう。今般の(将軍の)御上洛もやはり会の「勲動」でありますので、早々に朝廷より参議の官に任ぜられ、「宸賞(=天皇の賞揚)の御書付」も下付されるべきでしょう。また、幕府よりはこれまでの御役地五万石をご加増され、(会津藩の)疲弊を救い、金子もニ三万も与えられるのが至当でしょう。今般、(将軍の)従一位宣下と申し、右大臣宣下と申し、重畳の御官位昇進であられますが、畢竟、会なくては実現しませんでした。この件を早々に幕議で決定されますよう、また朝廷の方へは参与からでも構いませんし、尊公ならびに老中より朝廷へ仰せ立てられてもよく、総裁を今日にも鳴子に遣わして御建言されるのもよいと存知ます。このことは、昨夜寝ながら愚考したことを腹蔵なく献芹している次第であり、老中にも御伝言願います。>
 (意訳by ヒロ:管理人は素人なので、著作物等には絶対にこのまま利用せず、必ず原文にあたってください)

<ヒロ>
唐突な感じですが、実は、春嶽は、前年(文久3年)11月の慶喜入京直後に行った慶喜との会談において、<八月十八日(=禁門の政変)の事は中川宮のご配慮及び会藩・薩藩の尽力が抜群であり、今度、報酬の詮議があればと存ずる。・・・会も加禄くらいの沙汰は如何だろう>と提案していました(こちら)。どこかに会津藩に対する賞揚のことが頭にあったのでしょうか。前日の一橋邸の参与諸侯会合にて久光が会津藩について何か述べたことがきっかけとなって、考え付いたようです。このときに、久光がどういう意図でどんな発言をしたのか、話が単に8.18政変時の会津藩の働きに留まっていたのか、それとも、会津藩に対する賞揚が不十分ではないかというところまで話されたのか、具体的な案にまで及んでいたのか・・・記録があれば面白いと思うのですが・・・。

ともあれ、春嶽がこのようなアイデアを出してきたのは、単純に会津藩のモーティベーション向上だけではなく、こんな背景もあったのではと思っています。

(1)朝廷からの賞揚
先日の宸翰(詔書)によって長州必罰の方向性も決まった今、朝廷が公に会津藩を賞揚することで、改めて8.18政変の正当性を知らしめたかったのではないでしょうか。

(a) 官職の昇進-参議
容保の参議任官のアイデアは、特に長州藩主毛利敬親を強く意識したものではないかと想像しています。

江戸時代、武家の官位は公家の官位とは別枠でした。また、江戸時代の武家の官位は、将軍が武家を序列化するために与えており、朝廷は将軍の請求によって叙任の文書を交付するという形式になっていました。序列は、上から大納言、中納言、参議、中将、少将、侍従・・・です(侍従以下は略)。官位には家格が定まっており、たとえば尾張徳川家及び紀伊徳川家は大納言、水戸徳川家及び御三卿は中納言を極官(=最高の官職)としていました。参議までのぼることが許されたのは、原則的に加賀前田家のみでした。つまり、その他の大名の極官は中将以下ということになります。ちなみに当時、容保は中将でした。

しかし、文久3年1月、朝廷は、旧例(禁中並武家諸法度)を破って、長州藩主毛利敬親を参議に任命しました。歴代長州藩主は藩祖を除いては侍従あるいは少将が極官であり、参議になれる家格ではありませんでしたので、いわば家格的には「2階級特進」でした。敬親自身は当時は侍従でしたから、彼自身にとっては「3階級特進」の破格の昇進となります。このとき、さすがに敬親も<江戸を通さずに直に朝恩に浴するのは制度に背いております>と辞退をしたのですが、朝廷は、<拝受の後、在京の一橋中納言に知らせればよい>と辞退を許しませんでした。『徳川慶喜公伝』では「斯く抜擢を蒙りて、在京の後見職すら其議に与らず、朝威益伸びて幕府の憲典は益壊る」と述懐しています。

その当時は、京都で長州藩の勢いが盛んなときでした。しかし、同年8月の禁門の政変によって長州藩及び激派公卿らが京都を終われ、情勢は一変しました。先日の宸翰(詔書)で天皇の長州必罰の意思が公に示された今、政変の立役者である会津藩の藩主の官職を長州藩主と同じ参議に特進させることは、長州藩や激派公卿へのよいアピール(ダメージ)になるとも考えたんじゃないでしょうか?ちなみに中将は会津藩の極官ですから、参議に任ぜられることは会津藩にとって「1階級特進」となる特別待遇です。

参考:文久4年1月末の主な武家の官職
主な(前)藩主
大納言 尾張藩主徳川慶勝(従二位)
中納言 紀伊藩主徳川茂承(従三位)、水戸藩主徳川慶篤(従三位)、一橋慶喜(従三位)
参議 長州藩主毛利敬親(従四位上)
中将 会津藩主松平容保 (正四位下)
<前中将>前越前藩主松平春嶽(正四位下)
少将 薩摩藩国父島津久光(従四位下)
侍従 <前侍従>前宇和島藩主伊達宗城、前土佐藩主山内容堂(両者とも従四位下)
↑どうみても敬親が突出してますよねー。

余談:敬親と容保の参議
この時点では参議な敬親ですが、同年(元治元年)8月におきた禁門の変(蛤御門の変)により、朝敵となりは、官位を解かれてしまいました。しかし、慶応3年12月の王政復古にあわせて従四位上参議に復職しています。一方、容保は参議をいったんは固辞するのですが、慶応3年4月に補任。しかし、慶応4年1月には解官されてしまいました。容保に位階が再び与えられたのは明治9年になりますが、従五位という低いもので、幕末期と同じ正四位に復したのは明治13年でした。

(b)宸賞の書付
この書付は、幕府あるいは参豫から願い出ることになっていますから、密書ではなく、公にできるものが想定されているようです。ここからも、書付の目的が、単なる会津藩のモーティベーション向上だけではないことがうかがえると思います。

ところで島津久光には、政変後、既に宸翰が与えられています。ただし、密勅です。文久3年の8.18政変は会津藩と薩摩藩(そして中川宮)の連携によって起こされましたが、当時、久光(&藩主)は在京していませんでした。久光は召命によって上京しますが、その翌月の11月に、近衛前関白経由で、21条から成る内密の宸翰を受取っているのです(密勅21条(こちら)。宸翰には、久光の「勤王誠忠」に「感悦」し、今後、薩摩藩の武力を含めて久光に深く依頼する旨が書かれていますが、同時に、政変については「実に会津の忠勤に感悦するところ」とし、守護職である会津藩にも同じ書状(密勅)を遣わすべきか内々に相談したいとも書かれています。会津藩に同様の宸翰(密勅)を与えるかどうかについて、久光は否定的な奉答をしています。なお、久光は、自身に対して度々密勅を下すことについても、方々に差し障りがあるので、以後は中川宮・近衛前関白の両名に相談の上で下してほしいとしています。

久光の反対により実現しませんでしたが、天皇自身が政変時の会津の忠勤を称える内容を含む宸翰を与えることを考えていたわけで、今回、宸賞の書付を周旋することは天皇の意にも沿ったことになります。(このへんのことを春嶽がどの程度気づいていたのか、よくわかりません)。

なお、春嶽は与りしらぬことですが、孝明天皇は文久3年10月9日に、二条斉敬右大臣を介して、容保に、政変時の業績を賞揚する宸翰(天皇直筆の手紙)と御製(天皇の和歌)を内密に、下賜しています。(こちら)

(3)加増
覚書17:京都守護職会津藩と財政(1)膨大な赤字」参照

(4) 春嶽の提案の結果

春嶽の提案 結果 関連事項
(1) 参議宣下 2月12日、朝廷より参議推任の宣下あり
(2) 宸賞の書付 ?(2月8日、容保に極秘の宸翰)
(3) 5万石加増 2月10日、幕府より5万石加増の沙汰あり

○参豫解体の危機感
同じ日、春嶽は再び慶喜に書簡を送り、このままでは参豫解体にもなりかねないので、春嶽・久光・宗城の3名との参豫諸侯会合(容堂抜き)を提案しました。書簡の要点は以下の通り。

春嶽書簡の主要ポイント 内容(意訳byヒロ)
1 三条実美らの朝廷への建白書 両三条家(三条西季知・三条実美)の(家臣の持参した封書)件は、御同意であれば、明朝にも伝奏にて受取るよう野宮(定功)へ一書を遣わすよう願いあげます。
2 会津藩の賞揚 会津について今朝愚衷を申し上げましたが、幕府で御評議があるでしょうか。この件は一刻も早くお願いいたします。
3 容堂抜きの参豫諸侯会議 昨夜、尊館へ参集しましたが、「容堂大喝一声のみ、其余酒計にて更に何の裨益も無之、実に恐慄不少奉存候」。伊予守(=宗城)も別紙の通り申しておりますし、明日の夕方にでも伊予守、三郎(=久光)の三人で篤と諸事を御相談申し上げたいと思います。さもれば、「荏苒(じんぜん)消日」するのみで、終には機会を失い、「我輩解体仕候様相成候ては大事去可申」、皇国のために「泣血感憤」の至りです。
4 宸翰写しの幕府への廻示 一昨日(=1月27日)に小御所で賜った御宸翰(こちら)の写しは、伝奏より幕府へ廻示になりましたでしょうか。
5 宸翰内容の諸侯への布告 また、(宸翰の)諸侯への布告の件はどうなりましたでしょうか。老中が今日草稿等を検討するのでしょうか。
6 2月1日の登城 明日の登城はどうすべきでしょうか。
7 参豫の件 昨夜御相談のあった参豫の件はどうなりましたでしょうか(*)。
(*)、(7)の参豫の件は、参豫の御用部屋入りのことを指しています(翌2月1日の慶喜の返信より)。

<ヒロ>
ここ数日の容堂の言動には他の参豫諸侯も辟易しており、このままでは何も進まず、解体してしまうのでは、と危機感を覚えたようです。容保が最初から人数外であることもわかりますよね。

参考:『続再夢紀事』ニp386-390、『玉里島津家史料』ニp746、『維新史料綱要』五、『徳川幕府事典』(2010/3/17)
関連:■開国開城「政変後の京都−参豫会議の誕生と公武合体体制の成立」「参豫の幕政参加・横浜鎖港・長州処分問題と参豫会議の崩壊」■テーマ別元治1 「参豫会議」 「会津藩の賞揚

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