3月の「幕末京都」 幕末日誌元治1 テーマ別幕末日誌 開国-開城 HP内検索 HPトップ
★京都のお天気:快晴(久光の日記より) ■将軍家茂の位階昇進 【京】文久4年1月29日、朝廷は、山陵修補の功を称し、将軍家茂に従一位推叙を宣下しました。 また、山陵修補を幕府に建言した宇都宮藩主戸田忠恕(越前守)を従四位下に叙し、山陵奉行戸田忠至(大和守)を大名格に列し、刀剣一口を与えました。 ■参豫の動き ○会津藩の賞揚 【京】同日、松平春嶽は、8.18の政変における松平容保/会津藩の功について、朝幕賞揚(参議任命・天皇からの書付、役地加増)を周旋するよう慶喜に求めました。 同日付の慶喜宛春嶽書簡の概要は以下の通り。
<ヒロ> 唐突な感じですが、実は、春嶽は、前年(文久3年)11月の慶喜入京直後に行った慶喜との会談において、<八月十八日(=禁門の政変)の事は中川宮のご配慮及び会藩・薩藩の尽力が抜群であり、今度、報酬の詮議があればと存ずる。・・・会も加禄くらいの沙汰は如何だろう>と提案していました(こちら)。どこかに会津藩に対する賞揚のことが頭にあったのでしょうか。前日の一橋邸の参与諸侯会合にて久光が会津藩について何か述べたことがきっかけとなって、考え付いたようです。このときに、久光がどういう意図でどんな発言をしたのか、話が単に8.18政変時の会津藩の働きに留まっていたのか、それとも、会津藩に対する賞揚が不十分ではないかというところまで話されたのか、具体的な案にまで及んでいたのか・・・記録があれば面白いと思うのですが・・・。 ともあれ、春嶽がこのようなアイデアを出してきたのは、単純に会津藩のモーティベーション向上だけではなく、こんな背景もあったのではと思っています。 (1)朝廷からの賞揚 先日の宸翰(詔書)によって長州必罰の方向性も決まった今、朝廷が公に会津藩を賞揚することで、改めて8.18政変の正当性を知らしめたかったのではないでしょうか。 (a) 官職の昇進-参議 容保の参議任官のアイデアは、特に長州藩主毛利敬親を強く意識したものではないかと想像しています。 江戸時代、武家の官位は公家の官位とは別枠でした。また、江戸時代の武家の官位は、将軍が武家を序列化するために与えており、朝廷は将軍の請求によって叙任の文書を交付するという形式になっていました。序列は、上から大納言、中納言、参議、中将、少将、侍従・・・です(侍従以下は略)。官位には家格が定まっており、たとえば尾張徳川家及び紀伊徳川家は大納言、水戸徳川家及び御三卿は中納言を極官(=最高の官職)としていました。参議までのぼることが許されたのは、原則的に加賀前田家のみでした。つまり、その他の大名の極官は中将以下ということになります。ちなみに当時、容保は中将でした。 しかし、文久3年1月、朝廷は、旧例(禁中並武家諸法度)を破って、長州藩主毛利敬親を参議に任命しました。歴代長州藩主は藩祖を除いては侍従あるいは少将が極官であり、参議になれる家格ではありませんでしたので、いわば家格的には「2階級特進」でした。敬親自身は当時は侍従でしたから、彼自身にとっては「3階級特進」の破格の昇進となります。このとき、さすがに敬親も<江戸を通さずに直に朝恩に浴するのは制度に背いております>と辞退をしたのですが、朝廷は、<拝受の後、在京の一橋中納言に知らせればよい>と辞退を許しませんでした。『徳川慶喜公伝』では「斯く抜擢を蒙りて、在京の後見職すら其議に与らず、朝威益伸びて幕府の憲典は益壊る」と述懐しています。 その当時は、京都で長州藩の勢いが盛んなときでした。しかし、同年8月の禁門の政変によって長州藩及び激派公卿らが京都を終われ、情勢は一変しました。先日の宸翰(詔書)で天皇の長州必罰の意思が公に示された今、政変の立役者である会津藩の藩主の官職を長州藩主と同じ参議に特進させることは、長州藩や激派公卿へのよいアピール(ダメージ)になるとも考えたんじゃないでしょうか?ちなみに中将は会津藩の極官ですから、参議に任ぜられることは会津藩にとって「1階級特進」となる特別待遇です。 参考:文久4年1月末の主な武家の官職
余談:敬親と容保の参議 この時点では参議な敬親ですが、同年(元治元年)8月におきた禁門の変(蛤御門の変)により、朝敵となりは、官位を解かれてしまいました。しかし、慶応3年12月の王政復古にあわせて従四位上参議に復職しています。一方、容保は参議をいったんは固辞するのですが、慶応3年4月に補任。しかし、慶応4年1月には解官されてしまいました。容保に位階が再び与えられたのは明治9年になりますが、従五位という低いもので、幕末期と同じ正四位に復したのは明治13年でした。 (b)宸賞の書付 この書付は、幕府あるいは参豫から願い出ることになっていますから、密書ではなく、公にできるものが想定されているようです。ここからも、書付の目的が、単なる会津藩のモーティベーション向上だけではないことがうかがえると思います。 ところで島津久光には、政変後、既に宸翰が与えられています。ただし、密勅です。文久3年の8.18政変は会津藩と薩摩藩(そして中川宮)の連携によって起こされましたが、当時、久光(&藩主)は在京していませんでした。久光は召命によって上京しますが、その翌月の11月に、近衛前関白経由で、21条から成る内密の宸翰を受取っているのです(密勅21条(こちら)。宸翰には、久光の「勤王誠忠」に「感悦」し、今後、薩摩藩の武力を含めて久光に深く依頼する旨が書かれていますが、同時に、政変については「実に会津の忠勤に感悦するところ」とし、守護職である会津藩にも同じ書状(密勅)を遣わすべきか内々に相談したいとも書かれています。会津藩に同様の宸翰(密勅)を与えるかどうかについて、久光は否定的な奉答をしています。なお、久光は、自身に対して度々密勅を下すことについても、方々に差し障りがあるので、以後は中川宮・近衛前関白の両名に相談の上で下してほしいとしています。 久光の反対により実現しませんでしたが、天皇自身が政変時の会津の忠勤を称える内容を含む宸翰を与えることを考えていたわけで、今回、宸賞の書付を周旋することは天皇の意にも沿ったことになります。(このへんのことを春嶽がどの程度気づいていたのか、よくわかりません)。 なお、春嶽は与りしらぬことですが、孝明天皇は文久3年10月9日に、二条斉敬右大臣を介して、容保に、政変時の業績を賞揚する宸翰(天皇直筆の手紙)と御製(天皇の和歌)を内密に、下賜しています。(こちら) (3)加増 「覚書17:京都守護職会津藩と財政(1)膨大な赤字」参照 (4) 春嶽の提案の結果
○参豫解体の危機感 同じ日、春嶽は再び慶喜に書簡を送り、このままでは参豫解体にもなりかねないので、春嶽・久光・宗城の3名との参豫諸侯会合(容堂抜き)を提案しました。書簡の要点は以下の通り。
<ヒロ> ここ数日の容堂の言動には他の参豫諸侯も辟易しており、このままでは何も進まず、解体してしまうのでは、と危機感を覚えたようです。容保が最初から人数外であることもわかりますよね。 参考:『続再夢紀事』ニp386-390、『玉里島津家史料』ニp746、『維新史料綱要』五、『徳川幕府事典』(2010/3/17) 関連:■開国開城「政変後の京都−参豫会議の誕生と公武合体体制の成立」「参豫の幕政参加・横浜鎖港・長州処分問題と参豫会議の崩壊」■テーマ別元治1 「参豫会議」 「会津藩の賞揚」 |
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