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元治元年2月25日(1864年4月1日)
【京】長州処分:朝廷・幕府、「御用」を理由に長州藩末家・家老の大坂召命
【京】一橋家臣黒川慶兵衛、慶喜は薩摩を「敢えて疑」うわけではないと述べ、
春嶽も交えた薩摩・一橋の会合を提案

☆京都のお天気:陰暖 (久光の日記より)

■長州処分
【京】元治元年2月25日(1864年4月1日)、朝廷及び幕府は、長州藩京都留守居乃美織江に対し、「御用」があるので、末家1名、吉川監物、及び家老1名が上坂するよう命じました

この日、朝廷は、執奏家の勧修寺経理を通して、京都留守居役の乃美に以下の沙汰を達しました。
末家一人並吉川監物家老一人等御用有之候に付、大坂表迄罷出候様、長門宰相へ御沙汰候事。但着坂候はば早々届可有之事。

また、朝廷は、伝奏両名を通して、後見職一橋慶喜に、長州藩に上記の沙汰を出したことを知らせ、幕府よりも早々に沙汰を出すよう求めました。幕府の出した沙汰は以下の通り。
末家一人吉川監物並其方家老一人御用有之候に付、大坂表迄罷出候様、御所より被仰出候、且又 於公儀も御用有之候間、早速上坂可有之候。尤大坂表着候はば早々相届候様可仕候

<ヒロ>
この朝命は、前日の朝廷参豫会議の決定(こちら)に基づいて出されたものです。ところが、この後、末家ら3名の長州藩の使者を大坂に召し出すのではなく入京を許すべきだとの意見が出て、参豫諸侯の中で意見が分かれることになります。長州処分は、使者入京問題という手続き問題で、京都政局の重大問題となっていきます。

参考:『徳川慶喜公伝』3(2001/4/6)、『続再夢紀事』ニp443-444(2010/4/16)
関連■開国開城「参豫の幕政参加・横浜鎖港・長州処分問題と参豫会議の崩壊」■テーマ別元治1「長州・七卿処分問題(元治1)」 

■参豫会議解体:慶喜vs薩摩藩

【京】元治元年2月24日(1864年3月31日)、一橋家黒川慶兵衛は、慶喜と久光の仲を調停にきた越前藩士中根雪江・酒井十之丞に対し、慶喜は薩摩を「敢えて疑」うわけではないと述べ、春嶽も交えた薩・橋の会合を提案しました

中根・酒井と黒川のやりとりはこんな感じ↓
中根・酒井 近頃、橋公は「薩の為る所」を「殊の外疑」われているときく。
黒川 橋公は、薩摩を「敢へて疑」うわけでないが、最近、小松(帯刀)・村山(斎助?)・高崎(猪太郎?左太郎?)らが、毛利右京亮(注1)を大坂に待ち受けて「密に謀る所」があるという噂をきく。「全く幕薩の間を離間する為」に、そのような説を言いふらすのだろう。そこで、小松に逢って「懇話に及ぶ」積りだが、下坂中とのことでまだ実現していない。

時節柄、「嫌疑に渉る事」などあっては「容易ならざる不都合を生ず」るので、早速、薩・橋の会合を催し、「互に胸襟を開」いて話し合うことにしよう。そのときは、大蔵太輔(=春嶽)殿も入られるよう願いたいものである。
(管理人は素人なのでそのまま資料にしないでね)

(注1) 毛利京亮(=長府藩主毛利元周)の誤りだと思います

<ヒロ>
慶喜の薩摩藩への嫌疑が原因で久光が帰国を考えている問題について、春嶽の意を受けた中根雪江は、薩摩藩高崎猪太郎と相談した結果、一橋家の平岡円四郎・黒川慶兵衛を説得して慶喜の疑念を説くことにしていました(こちら)

参考:『続再夢紀事』ニp442-443(2010/4/16)
関連:■開国開城「参豫の幕政参加・横浜鎖港・長州処分問題と参豫会議の崩壊」■テーマ別元治1「参豫会議解体:参豫VS慶喜/幕府)」

■その他の出来事
【京】中山忠能、攘夷期限の設定&長州・七卿寛典を建議
【京】会津藩士手代木直右衛門、宗城に朝幕の離間策の風聞(来る26〜27日頃に8,18政変のようなことが起こり、関白退去、一橋も退役、尹宮摂政に)を伝える。
【京】伊達宗城、中川宮訪問。密談(どちらも『伊達宗城在京日記』p352-353

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