3月の「幕末京都」 幕末日誌元治1 テーマ別日誌 開国-開城 HP内検索 HPトップ
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☆京都のお天気:晴暖 (久光の日記より) ■朝廷参豫会議/長州処分 【京】元治元年2月24日、朝廷参豫会議が召集され、結論として、長州藩の末家・家老の召喚手続きについて、朝廷が「御用」を理由に大坂まで呼び出すことが決まりました。 この日の会議は小御所で行われ、朝議参豫の慶喜(後見職)・春嶽(守護職)・宗城・久光のほか、藤堂高猷(津藩主)、黒田慶賛(筑前藩世子・藤堂高猷三男)、浅野茂勲(芸州藩世子)及び長岡護久・良之助兄弟(肥後藩主弟)の諸侯も出席しました。(朝議参豫の容保・容堂は欠席。容保は征長副将でもありますが・・・) 会議の結果、長州藩末家・家老召喚手続きについては、長州末藩1名、吉川監物、家老1名を「御用有之」という口実で大坂に来るように朝廷が沙汰を出すこと(&「幕府より云々被仰出なき事」)、及び朝命は明25日に伝えることが決まりました。 表:これまでの朝廷参豫会議の概容
<ヒロ> 2月13日の朝議でもそうでしたが、長州藩を刺激しないように気を遣っていますねー。 参考: 『続再夢紀事』ニp441-442、『伊達宗城在京日記』p352、『玉里島津家史料』ニp751-(2010/4/15) 関連■開国開城「参豫の幕政参加・横浜鎖港・長州処分問題と参豫会議の崩壊」■テーマ別元治1「長州・七卿処分問題(元治1)」 ■容保の守護職更迭・春嶽の守護職就任問題 【京】元治元年2月24日、朝廷参豫会議のため参内した慶喜に対し、二条関白から、「守護職を更に会津家に命ぜらるる様にとの」沙汰がありました。 <ヒロ> 前日、中川宮が宗城に対し、「春岳守護職不宣」と話したのは(『伊達宗城在京日記』)、このことを指していたのでしょうか。 孝明天皇は、2月16日に容保に二度目の宸翰を送って守護職復帰を望む旨を伝えていましたが(2/16)、この時点では、容保の復職は「事(=征長)済之上」の話でした。天皇は容保に対して内密な依頼があったのですが(依頼内容は明かされていない)、そのためにも守護職復職を希望していました。ただし、依頼の件は「守護職ならば重畳」だが守護職である必要はないとしており、復職までに時間がかかるなら、復職せぬままに実行が可能かどうかを容保に打診しており、また、現守護職の春嶽にも依頼を試みるべきかどうかと相談もしています。(奉答書において、容保は、守護職復職については天皇・将軍より沙汰があれば遵奉すると回答し、天皇が春嶽に依頼を試みる件については、春嶽は沙汰があれば遵奉するだろうし、その方が御都合もよいだろうと回答しました)。つまり、このとき、孝明天皇は、容保の守護職解任を残念には思うが、春嶽の守護職を受け入れようとしており、容保の復職を希望はしていましたが、それは今すぐではなく征長後という先のことでした。 結局、天皇は春嶽に依頼を試みることなく、容保の守護職再任を求めることなりました。 この時点で、春嶽の辞職は求められていないので、朝廷の沙汰をそのまま実行すれば、春嶽・容保の二人で守護職を務めるという状態になります。 会津藩に再任を命じる件について、『続再夢紀事』には、あっさりと記されているだけで、二条関白がなぜ会津藩の再任の沙汰を下したのか、等の記述がありません(伝聞、想像の記述もない)。その後、この件について、朝廷側に事情を尋ねるなどフォローした気配もありません。ちょっと不思議です・・・。 参考: 『続再夢紀事』ニp441-442(2010/4/15, 10/1) 関連■テーマ別元治1「会津藩の守護職更迭・春嶽の守護職就任問題」 ■参豫会議解体:慶喜vs薩摩藩 【京】元治元年2月24日(1864年3月31日)、一橋慶喜の薩摩藩への嫌疑が原因で島津久光が帰国を考えている問題について、松平春嶽の意を受けた越前藩中根雪江と薩摩藩高崎猪太郎が相談した結果、一橋家の平岡円四郎・黒川慶兵衛を説得して慶喜の疑念を説くことに決まりました。 中根と高崎のやりとりはこんな感じ↓
参考: 『続再夢紀事』ニp441-442(2010/4/15) 関連■テーマ別元治1「参豫会議解体:参豫VS慶喜/幕府」 ■開国開城「政変後の京都−参豫会議の誕生と公武合体体制の成立」「参豫の幕政参加・横浜鎖港・長州処分問題と参豫会議の崩壊」 【京】元治元年2月24日、備前藩主池田茂政が入京しました。 <ヒロ> 茂政は水戸9代藩主徳川斉昭(烈公)の9男で、既に入京している因幡藩主池田慶徳とともに、慶喜の異母兄弟になります。しかし、本音は開港論の慶喜に対し、茂政は、慶徳同様、烈公譲りの頑固な鎖港攘夷主義者。慶喜にとって兄弟が側にいて心強い!というわけにいくのかどうか・・・。 参考: 『維新史料綱要』五p146(2010/4/15) 【坂】元治元年2月24日、横浜貿易商の伊勢屋平兵衛が大坂で暗殺され、その首が道頓堀大和橋に梟されました。 参考: 『維新史料綱要』五p146(2010/4/15) |
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