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元治元年2月26日(1864年4月2日)
【京】幕府、在京諸侯を二条城に召し、国是を諮問/
【京】前尾張藩主徳川慶勝入京
【京】慶喜、備前藩主池田茂政(異母弟)・因幡藩主池田慶徳(異母兄)の
征長免除・京都における周旋の命が下ることを内報。
【坂】加徳丸事件:長州義勇隊士に襲撃された薩摩船主大谷仲之進が大坂で梟首される。
傍らに義勇隊水井精一・山本誠一郎の割腹した遺体(久坂玄瑞ら主導)

☆京都のお天気:雨温暖甚し (久光の日記より)
【京】元治元年2月26日(1864.4.2)、幕府は在京諸侯を二条城に呼び出し、国是を諮問しました


参考:『続再夢紀事』ニp419、『玉里島津家史料』ニp751、『伊達宗城在京日記』p354 (2010/4/17)
■久光@御用部屋
【京】元治元年2月26日、登城した朝議参豫の島津久光が御用部屋に入ると、老中水野忠精から、意見があれば書面を提出するよう求められました。

久光は宗城とともに、2月16日に御用部屋入りを許可されていました(こちら)

参考:『玉里島津家史料』ニp751 (2010/4/17)
関連:■開国開城「参豫の幕政参加・横浜鎖港・長州処分問題と参豫会議の崩壊」■テーマ別元治1「参豫の幕政参加問題

【京】元治元年2月26日、将軍後見職一橋慶喜は、前日入京した備前藩主池田茂政(異母弟)に書を送り、因幡藩主池田慶徳(異母兄)とともに征長出陣免除及び・京都における周旋の命が下ることを内報しました。

参考:『維新史料綱要』五 p149(2010/4/17)

【京】元治元年2月26日、前尾張藩主徳川慶勝が入京しました。

<ヒロ>
慶勝は、会津藩主(&軍事総裁職)松平容保の兄です。

翌27日に松平春嶽が伊達宗城に語ったところによると、慶勝は容保の守護職更迭問題については、薩越宇は開港論だが会津は鎖国宇論なので、「程能会ヲ退ケ」て春嶽が守護職と成り、「朝廷迄説得ニ可有之」と考えており、長州処分については、昨年の「長州不宣」だが、「畢竟朝廷御動揺故の義」で、「長へ御ことわり可有之位の事」なので、幕府が糾問するのはよくないと考えていたようです。

参考:『維新史料綱要』五 p149、『伊達宗城在京日記』p355(2010/4/16)
関連:養子諸侯の時代?:一会桑は養子&水戸徳川家の血筋
【坂】元治元年2月26日、東本願寺別院前に薩摩船主の大谷仲之進が梟首され、その右側には「中国浪士」水井精一・山本精一郎が割腹して斃れていました

現場に残された斬奸状には、天皇の攘夷の意思をを蔑ろにして、長崎で外国と密貿易をしていた薩摩船を焼き討ちし、船中にいた「奸吏」を殺害し、「世間交易する者を戒めんために」梟首した旨が書かれていました。また、彼等は「所存」があって「国許を脱走」していること、「攘夷之叡慮相つら(ぬ)き」、「我等赤心」を示すために「割腹」するとありました(『玉里島津家史料』)。

<ヒロ>
水井と山本は長州藩下士(足軽)で、義勇隊士でした。

これより先、周防の上関に駐屯する義勇隊士が、近くに碇泊中の薩摩船加徳丸を襲撃して沈没させ、船主大谷仲之進を殺害するという事件(上関事件、加徳丸事件)がありました(こちら)。斬奸状によれば、彼等はその犯人だということになります。『修訂防長回天史』・『修補殉難録稿』・『明治維新人物事典』などによっても、水井・山本は事件の犯人とされており、彼らは藩に迷惑をかけぬよう脱藩して中国浪士と称し、大谷の首を大坂まで持ち出して梟し、自分たちは割腹したとされています。(さらに、3月10日、同じ義勇隊士の高橋利兵衛が共謀者として切腹しています)。

ところが、一坂太郎氏(『長州奇兵隊 勝者の中の敗者たち』)によれば、事件の真相はそうではなく、水井らの死は久坂玄瑞ら吉田松陰門下の激派有力者に強要されたものでした。しかも、彼らは事件とは無関係(注1)なのに、薩摩の罪状を告白して割腹すればこの上ない忠誠であると、罪を被って死ぬことを強要されたのだそうです。水井は無念に思いながらも自刃しましたが、山本はぐずぐずしているため、野村靖(松陰門下)に斬殺されて割腹にみせかけられたのだといいます。

なぜ、そんなことになったのか。

加徳丸事件(上関事件)が起こったのは、文久3年12月24日に奇兵隊が薩摩が借用中の幕府汽船長崎丸を砲撃・沈没させた事件(長崎丸砲撃事件)からわずか1ヶ月余のことでした。長崎丸のときは、長州藩は、使者を薩摩まで送って『外国船を誤った』ことを謝罪するなどして、なんとか薩摩との全面対決を回避することに成功していました(注2)。一坂氏は長崎丸砲撃事件の顛末を引き合いに出した上で、「さすがに長州藩として同様の謝罪をしても今回は許されない」だろうと考え、「問題をすり替え、藩としての責任を免れようと」したのだと説明しています。つまり、「できるだけ人目につくところで犯人に責任をとらせ」ることで「世間の同情を先に長州藩に集め」、しかも焼き打ちの理由を薩摩の「密貿易への義憤」とすることで、逆に薩摩を「苦しい立場」に追い込もうとしたのだそうです。

注1 一坂氏は、以下の理由から、両名が事件に無関係だと判断している。

水井:切腹7日前の水井書簡によれば、品川弥二郎・野村靖らから「薩国罪状暴白」のために割腹すればこの上ない忠誠であると、罪を被って死ぬことを強要され、「切歯に堪えず」という無念の心境で切腹を受け入れた経緯が記されている。なお、水井書簡の要旨は井上勝生『幕末維新政治史の研究』に紹介されているとのこと。

山本:『忠正公勤王事績』に関係者の野村靖の談話をもとに書かれた箇所があるが、それによれば、事件の犯人がわからないので義勇隊士の中から「国家のために」命を捨てる者を募ったところ、名乗り出たのは水井一人だけだったという。一人では不都合なので、以前放蕩をし、盗賊まで行ったことがある山本に「因果を含めて」切腹を承知させたという旨が記されている。なお、山本の自叙伝(「帰正弁」)によれば事件に関与したと書かれているそうだが、一坂氏は「罪を被った山本がここに「真相」を書かなかったのは当然」としている。
注2 長崎丸砲撃事件のおさらい:文久3年12月24日、薩摩藩が幕府から借り受けた長崎丸が関門海峡で長州藩奇兵隊によって砲撃されて、沈没し、乗組員20余命が行方不明になったという事件が起った(こちら)。このことで薩摩藩の恨みをかうことを恐れた長州藩庁は、藩主の使者桂議介を薩摩へ派遣して『外国船と誤って砲撃した』件を謝罪するなどして、事態の収拾をはかった。一方、元治元年正月に一報を受けた京都の薩摩藩邸では藩士が激昂したが、藩庁はまず、使者を派遣して事情を糾問してから「和戦」を決すべきだと決めた。ところが、翌2日の参豫諸侯の集会(こちら)で薩摩藩から一件の報告を受けた一橋慶喜は、「長の罪は今後取糾す時機あるべければ(=長州処分を示唆している)今日に於て些細の事を聞くは宜しからず」と慰撫し、「衆議」によって薩摩藩の使者派遣は一時見合わせとなった。こうして、薩長全面対決の危機は遠のいたが、2月8日に参豫・幕府・朝廷重臣の三者が合意した長州処分では、長州支藩及び家老を大坂に召喚して行う予定の訊問項目に、上述の慶喜の発言どおり、長崎丸砲撃事件が含まれており、予断を許さない状況だった(こちら)

<ヒロ>
現場には辞世も残されていましたが、真相を知って読むとまた違って感じられます。

なお、昭和8年に発行された『修補殉難録稿』では、実際は罪を被っての自刃を躊躇して殺害された山本が、<主君に迷惑をかけないために大坂での梟首・自分たちの割腹を発案した>と記されています・・・。

義勇隊に殺された大谷仲之進の来歴は資料が探せませんでした。彼こそが一番の殉難者なのに。

参考:『修訂防長回天史』p578(四上238-239)、『玉里島津家史料』三p208-209、『修補殉難録稿(宮内省版)』中p197-199、『長州奇兵隊 勝者の中の敗者たち』p37-53(2010/4/17)

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