慶応3年3月13日(1867年4月17日)夜、伊東甲子太郎は新選組局長近藤勇らと分離策について話合い、了承を得ました。 「13日 夜壬生を訪ひ分離策を談ず。意の如し」(伊東甲子太郎「九州行道中記」) 明治2年・3年に津軽藩/弘前藩が提出した公文書や御陵衛士と交流のあった西本願寺路侍臣の西村兼文の明治22年脱稿の『新撰組始末記(壬生浪士始末記』)では、御陵衛士の分離のそもそものきっかけは幕臣取立ての内定であったようです(このことは、阿部も史談会で証言しています)。津軽藩/弘前藩の文書によれば、「勤王」のため脱藩したのに今更徳川家臣になったのでは二君に仕えることになる上、「勤王」の素志にもとって不本意なので同志で決議の上、断然新選組を離局したとされます。また、新撰組始末記によれば、伊東は御陵衛士として勤王一筋に尽くしたいとの正論をもって談じ、異議があれば一刀両断にしかねない勢いであったので近藤は承諾したとされています(<ヒロ>参照)。 御陵衛士となって伊東とともに分離した阿部の明治33年の証言(『史談会速記録』)によれば、分離の策を立てた理由は、近藤に反対しては京阪で活動を続けることができないからとされています。そこで、市中の見廻りでは諸藩の内情を探ったり浪士の挙動をみやぶることができないので、表面は分離と見せかけて、内実は新選組のために尽くすから人数を分けて分離をさせてくれ・・・と説得したといいます。近藤も、それなら分離して共に力を尽くしてくれと承諾したそうです。 やはり衛士であった加納鷲尾の明治34年の証言(『史談会速記録』)によれば、「新選組に一旦同盟したのを他に出すという事は内規においてないが、伊東は近藤と熟談の結果で」分離したとしています。 <ヒロ> 篠原泰之進の明治期の手記といわれる『秦林親日記』では、前年の慶応2年9月に伊東・篠原が近藤・土方と時勢について激論し、翌日、篠原がひとりで再び激論し、異論があれば一刀両断にせんという勢いで分離を承知させたとあります。(西村兼文の『始末記』は一部、『秦林親日記』と文章が同じな箇所があり、同日記の草稿を入手して参考にしたのではないかといわれています)。しかし、伊東の同時代記録、および阿部・加納の証言では、どちらかというと(表面上は)円満に分離したような気配があります。その証拠に、伊東の日記によれば、会津藩公用方との話し合いもスムーズにいき、分離前には近藤・土方と酒をくみかわしています。伊東のその後の政治的活動(建白書を含めて)をみると、眼目は討幕ではなく同心一和です。新選組・・・というより背後の京都守護職・会津藩と良好な関係を保つことは彼らの活動にとって、必須だったように思うのです。 証言を残した生き残りの衛士は、同志の仇であり、また「賊軍」でもある新選組と距離を置こうとする心から、分離時の路線対立を強調している嫌いがあるのではないかと思います。 また、このとき、茨木司、佐野七五三之助、中村五郎、富川十郎の4名は、近藤の反対により分離できなかったそうです(阿部隆明(十郎『史談会速記録』90)。一説には彼らは他出していて分離できなかったともいいます(『新撰組始末記』)。彼らは、のちに、幕臣取り立てに反発して脱退を主張し、会津藩主に嘆願書を出しますが、新選組によって会津藩邸にて謀殺されてしまいました(切腹説もあり)。 茨木らの例からも、幕臣取り立てが新選組離脱の大きなきっかけであったとみてよいのではないでしょうか。 元新選組隊士島田魁によれば、この事件が新選組と御陵衛士の不和の始まりだったそうです(『江戸会誌』)が、逆にいうと、この事件までは対立は深刻なものではなかったとみることもできます。(篠原の手記の検証について、後日、特集にUPしたいと思っています) 関連:「九州行道中記」@衛士館、御陵衛士日誌「慶応3年(2)」@衛士館 |