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元治元年3月16日(1864年4月21日)
【京】中根雪江・酒井十之丞、一橋邸を訪問。
松平春嶽の守護職解免を求め、辞表案を示す
【京】久光、宗城に慶喜の「守衛総督」内願・守護職廃止の見込み・
在京外様藩退京の建白を報せる。両者、「姦謀」だと嘆く
【京】久光・宗城、御用部屋辞退を決める


☆京都のお天気:晴平和(久光の日記より)
■春嶽の守護職辞任
【京】元治元年3月16日(1864年4月21日)、越前藩士中根雪江・酒井十之丞は一橋邸に赴くと、黒川嘉兵衛に面会して、前日に川越藩士山田太郎左衛門からきいた朝幕における春嶽の不評判の話をして、一日も早い解免を求めました。同時に、守護職辞表の草案を示しました。

黒川は、<朝廷においては殿下(=二条関白)・尹宮(=中川宮)からそういう御沙汰(=解任の沙汰)もあったが(「朝廷にては殿下及び尹宮よりさる御沙汰もありたれど」)、幕府においては未だそこまで「切迫の評議」はない。しかし、中納言殿(慶喜)へ申し上げて、「何分の事を」至急御返答に及ぼう>と答えたそうです。

<ヒロ>
春嶽解任の沙汰がいつでたのかは手持ちの資料からは不明です。ただ、前日、川越藩家老が越前藩に「朝幕をはじめ諸藩に於て御評判宣しからず。依然御奉職あらば如何なる御不都合を生ずべきや測りがたければ此際御辞表を捧げられては如何」と忠告した(『続再夢紀事』三)のは、解任の沙汰が出されたからだという見方も可能だと思います。

春嶽がなぜ解任されなくてはいけないのか・・・。朝廷における春嶽の不評だけでなく、孝明天皇の容保への執着も挙げられると思います。二条関白は「叡慮」に基づき、会津藩主松平容保の守護職復帰を幕府に強く要請してきましたが、一向に実現しないので、まず春嶽を解免して容保を復帰させようと考えたのかもしれませんよね?

●中川宮の動き
それにしても、前日、中川宮は、越前藩から春嶽の辞意を聞かされたとき、春嶽が守護職を辞任して薩越が去れば、因水備がまた勢力をのばし、今後形勢が一変するかもしれない・・・と痛く当惑の態だったとされているのですが・・・・・・(『続再夢紀事』三)。その裏では春嶽の解免の沙汰を出していたってことですよね・・・??二条関白は容保の守護職復帰推進派なので、それとセットになっている春嶽解任を推し進めるのはわかるのですが・・・。

この後、中川宮は慶喜の禁裏守衛総督就任に対する懸念から、春嶽の守護職留任を強く求めていくことになります。そこからも、解任の沙汰を出したっていうのは、不自然な感じがするのです。もしかすると、孝明天皇の意思である容保の守護職復帰とセットになっているので、不本意ながら二条関白につきあって一緒に春嶽解任の沙汰を伝えたのでしょうか??それとも、黒川の記憶違い(あるいは中根らの記録ミス)でしょうか?

参考:『続再夢紀事』三p36-37(2010/6/6, 9/28)
関連:■テーマ別元治1 「春嶽の守護職就任問題

この日、伊達宗城は薩摩藩邸を訪ね、島津久光と種々密談をしました。

■参豫の幕政参加
【京】元治元年3月16日、伊達宗城・島津久光は、朝議参豫御免を理由に御用部屋入りも辞退することに決め、明朝、慶喜に願い出ることを決めました。

参考:『伊達宗城在京日記』p380-381、『玉里島津家史料』ニ(2010/6/25)

***
■慶喜の禁裏守衛総督・摂海防御指揮就任
【京】同日、島津久光は、伊達宗城に、慶喜から「京摂総督」任命の内願があり、守護職も廃止になるだろうこと、また在京外様藩退京の建白もあったと伝えました。両人は、「不容易姦謀」だと「痛歎」しました。

<ヒロ>
情報源は不明ですが、陽明家・中川宮あたりでしょうか。(中川宮は、12日に春嶽に対し、慶喜の総督任命の内願があったことを知らせています こちら)。なお、ここでは触れられていませんが、慶喜の総督任命願いは後見職辞職願いとセットになっています。朝廷サイドは容保の守護職復帰を強く働きかけている最中ですので、守護職廃止というのはありえないと思うのですが・・・あるいは、春嶽の守護職解任の沙汰が出たことをそのように解釈したのかも?

●宗城の慶喜への疑惑(憶測)
なぜ、「不容易姦謀」だというのでしょうか。

宗城は、日記の続きに、「矢張水因長之策略、会稽の恥を雪之意」であり、慶喜は「大罪ニ落入不知、実ニ至尊之危殆」だと断じています。

慶喜の総督就任・在京外藩(薩摩・宇和島を含む)退京となれば、長州シンパの在京水戸藩・因幡藩(いずれも藩主が慶喜の兄弟)の勢力が拡大し、彼らの入説によって、慶喜が長州藩の入京を許してしまい、情勢が禁門の政変以前に戻る事態を危惧しているのではと思います。

ちなみに、 水戸藩・因幡藩の慶喜への影響力については、これより前、3月12日に、春嶽が、宗城に、慶喜の越前・薩摩・宇和島に対する「忌憚」は「水因等之入説盛んに行」われているからではないかとの疑念を伝えていました(こちら)。また、15日には、中川宮も、越前藩士に対し、薩摩・越前藩の退京後、水戸・因幡・備前藩が勢力を拡大するのではないかとの懸念を示しています(こちら)

参考:『伊達宗城在京日記』p381-382(2010/7/3)
関連:■テーマ別元治1「慶喜の後見職辞職/総督・指揮職就任」

■その他の動き
【京】幕府、朝旨に基づき、在京諸侯に国是を諮問(『玉里島津家史料』ニ)
【外国】横浜鎖港交渉使節、パリ到着。(『維新史料綱要』五)


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