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元治元年3月17日(1864年4月22日)
【京】越前藩、守護職辞表(内願書)を総裁職に提出
【京】川越藩士山田、幕閣・慶喜の越前藩への猜疑を語る
【京】久光・宗城、一橋邸を訪ね、御用部屋入り辞退に申し出る
【京】1月27日の宸翰は薩藩高崎猪太郎の草案であるとの落書


☆京都のお天気:雨(久光の日記より)
■春嶽の守護職辞任
【京】元治元年3月17日(1864年4月22日)、越前藩は、春嶽の守護職辞表(内願書)を総裁職に提出しました

●慶喜の慰留
この日、一橋家用人平岡円四郎は越前藩士中根雪江・酒井十之丞を呼び出し、慶喜の慰留の言葉を告げました。しかし、越前藩側が辞意撤回を承諾しなかったため、改めて辞表を提出するよう求めました。

平岡と中根・酒井のやりとりはこんな感じでした↓
平岡 昨日話された大蔵太輔(春嶽)殿守護職御辞職の件を中納言殿(慶喜)に申し上げたところ、<先日、大蔵太輔(春嶽)殿を(守護職に)推薦したのは、今後「同心協力事を謀」ろうとしてのことである。然るに、就任して間もない今日、突然辞職されようとは、「実に思い寄らざる次第」であり、「残念」でもある。また、推薦した際に固辞されたのを強いてお勧めしたので、「今更嫌疑などの為御辞職」になっては「如何にも御気之毒」に存じる。今回の御辞職は「兎にも角にも」思い留まるよう「厚く御相談及」ぶように>と申し付けられた。また<外国新聞に上書案が掲載された件は、速やかに出所を糾して冤を雪ぐので御懸念には及ばず、「朝廷の御覚へ宜しからず」というのは、そのような事あるはずはないが、速やかに御内慮を伺うので、これも御心配なきようにと申し上げよ>とのことである。この朝廷の御内慮は、近日、中納言殿御自身が伺われるはずだが、それでは遅いので、平岡・黒川のどちらかが至急伺うようにと命じられ、今日にもどちらかが関白殿に参上するつもりである。
中根 (辞意撤回を承諾せず)当職奉命の際は「鋭意勉励」する事に決していたが、昨日内啓に及んだように、今ではその鋭意も既に「挫折」しており、この上はどのような御勧めがあっても、再び「奮発」することには至り難い。一日も早く当職解免の御周旋をされることを希望する。
平岡 それほどまでに御決心であれば、是非もない次第である。黒川に内示された御辞表案の趣意をなるべく簡単におまとめになり、一通を当方に、別の一通を総裁職へ提出されるように。
酒井 御用にも立たぬのに多数の人数を出しており、思いもよらぬ経費を要している。従来逼迫の国費はいよいよ逼迫に及び、何とも当惑している。
平岡 (↑この件に対しては、「殊の外困窮の体」で言葉を濁した)

平岡との面談後、中根・酒井は帰邸して、春嶽に復命して辞表(内願書)を認めました。中根はさらに一橋邸に赴きましたが、平岡・黒川の両名が不在だったため、川越藩邸(総裁職邸)に山田太郎左衛門を訪ねて、辞表を提出しました。

●幕閣・慶喜らの越前藩への嫌疑(by 川越藩士の情報)
山田は中根から書面を受取った際に、幕閣・慶喜らの越前藩への嫌疑について以下のように語ったそうです

○幕閣の嫌疑
<和州殿(総裁職松平直克)へ(春嶽が)御辞職の上敦賀港警備御負担の御内意であることを申し出たところ、(直克は)それはよい考えだといわれ、今朝、早速、営中にてそれとなく、敦賀警備の必要性を申しだされた。すると、老中がそれは誰が言い出したのだと「根問い葉問い迫」ったので、実は越前の家臣より我が家臣に話があったと答えられたところ、「去ればこそ例の狡猾に出るなれば越前は彼地にて何か一と仕事すべき目論見ならん」等、「悪しざまに評」しあわれた>

○慶喜及び平岡・黒川の両人の変心
<江戸表以来、「所論時々転変実に不可思議なり」。過日、藩主(=松平直克)が着京した頃は、我々の眼にも、「橋越の交義は恰も膠漆」のように見受けられたし、又、守護職を勧められた事は、貴藩にては、君臣とも固く拒まれ、随分厳しく議論にも及ばれたが、一橋殿は強いて御勧めあった。ことに平岡などは堂々たる議論を発し、「千軍万馬も殆ど当るべからざる程の勢」だったのに、「近来は俄に反対の論旨」で、「川越などは律儀に過ぎ、越の奸を察せざるなり」など評している>

<ヒロ>
山田は、15日に越前藩を訪ね、応対した中根に、朝幕における春嶽の不評を伝え、守護職辞任を忠告していました(こちら)。山田から慶喜・平岡・黒川が「越の奸」などいっていることを聞かされては、平岡の伝える慶喜の慰留の言葉も空々しく感じられたことと思います。(山田も、15日の件はともかく、守護職辞表を提出した後に、ここまでいうことはなかったんじゃないか・・・と思いますが。ここでいっても、誰も得をしないというか・・・。もしかすると、山田が進んでいったのではなく、中根が聞き出したのかもしれないですね)

参考:『続再夢紀事』三p37〜40(2010/6/25)
関連:■テーマ別元治1 「春嶽の守護職就任問題

■参豫の幕政参加
【京】元治元年3月17日(1864年4月22日)、伊達宗城・島津久光は一橋邸を訪ね、参豫御免を理由に御用部屋入り辞退を申し出ました。(前日の薩摩藩邸における両者の密談の結果を受けたものです)。

なお、このとき、慶喜は、春嶽の守護職辞任問題について、「朝廷ニ而之都合悪敷、幕府にても色々不工合」があるが、春嶽は「正直之人故気之毒存候間、何等といたし度」との話したそうです。

参考:『伊達宗城在京日記』p382、『玉里島津家史料』ニ(2010/6/25)
関連:■テーマ別元治1「参豫の幕政参加問題
■将軍への宸翰
【京】同日夜、四条橋に、1月27日の将軍への宸翰は(薩摩藩士)高崎猪太郎の草案であり、高崎を「令斬戮」との落書が張り出されました

参考:『伊達宗城在京日記』p383(2010/6/25)
関連:■テーマ別元治1 「将軍への二度の宸翰」

■その他の動き
【京】春嶽、宗城に書簡をもって辞任内願の件を報じる(『続再夢紀事』三p40)

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