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◆3/11 ◆3/13
☆京都のお天気:晴(久光の日記より) ■慶喜vs参豫諸侯 【京】元治元年3月12日、松平春嶽は、伊達宗城に送った書簡の中で、最近の「廟堂の春色更に不分明」で三老中は「(旧態)依然」であること、慶喜の「方寸更に難解」で「測知し難」いことを嘆きました。また、慶喜の越前・薩摩・宇和島に対する「忌憚」は「水因等之入説盛んに行」われているからではないかと疑念を示し、この件について会って相談したいとも伝えました。 <ヒロ> 春嶽は、前日(11日)に、藩議に基づき、慶喜に幕政一新を説きましたが、慶喜は常にない「冷淡」な対応をしていました(こちら)。 参考:『続再夢紀事』三p13-15(2010/5/1) ■慶喜の禁裏守衛総督・摂海防御指揮就任 【京】元治元年3月12日、中川宮は、春嶽に対し、幕府(総裁職・老中)から慶喜に「守衛総督」(注1)を命じるよう内願があったことを伝えました。彼らは、もし、慶喜が総督に任命されれば、「兼て取調に着手し居る御尊奉の條々ハ即日よりにても実行仕るべし」と述べたそうです。(『続再夢紀事』) (なお、『続再夢紀事』では触れられていませんが、慶喜の総督任命願いは後見職辞職願いとセットになっています。) <ヒロ> ●総督・指揮内願の理由 3月25日に宗城が慶喜に問い詰めて確認したところによると、この件は、元は慶喜が希望したことでした(こちら)(『伊達宗城日記』)。また、次のように、最初は摂海防御指揮に重点が置かれての内願だったようです。 慶喜の後年の回想(『昔夢会筆記』)によれば、京都に守護職・所司代があったのにも関らず、慶喜が禁裏守衛総督・摂海防御指揮就任を内願したのは、「当時、島津大隈守(=久光)が総督たらんことを希望するの風説」があり、それを牽制するためだったようです。その頃薩摩藩士折田要蔵が「他日、大隈守が総督たらん時の用意にや、摂海防御の方法について種々の取り調べをなし、かつ山階宮へもしばしば参殿して周旋するところ」があり、「山階宮しきりに心配し給う由を平岡円四郎聞きつけて、是非当方へ仰せ付けられたしと内願した」のだそうです。 さらに、『徳川慶喜公伝』では、幕府が禁裏守衛総督・摂海防御指揮を新設した理由として、以下の三事を挙げています。(ニ事めは慶喜の回想と同じラインです)
(注1)『続再夢紀事』では「守衛総督」となっているが、久光の日記(『玉里島津家史料』ニ)、『伊達宗城在京日記』をみると、内願の段階では、「京摂守衛総督」、「京摂総督」、「京阪総督」となっており、京都と大坂両地域の守衛を担当する総督を意味している。(「禁裏守衛総督・摂海防御指揮」という職名は任命時に与えられた職名のようである) (注2)幕府が安政5年(1858年)にアメリカ・イギリス・フランス・ロシア・オランダの5ヵ国と結んだ条約(日米修好通商条約・日英修好通商条約・日仏修好通商条約・日露修好通商条約・日蘭修好通商条約:総称して「安政の5カ国条約」ともいう)による。 ●幕府が慶喜の将軍後見職辞職に反対しなかった事情 後年、慶喜は、幕府が辞職に反対しなかったのは、幕府首脳が滞京していては江戸のことが行き届かない(つまり、京都のことは慶喜達に任せて自分たちは将軍とともに東帰したい)という事情があった上、彼らがそもそも慶喜の後見職就任を望んではいなかったからだと述べています。(「あれは別に事情というほどのことはないけれども、早く言うと、京都にいて、関東のことはどうも少し届きかねる。また、関東の方でもかねて後見はあまり望まぬのだ。それで関東の方では、ちょうどよいからここで御免になるのがよかろうといったようなわけ、こっちでは何分江戸のことを京都にいていちいちやるというわけには事実いかない。双方持ち合って、何の議論なしに済んでしまったのだ」『昔夢会筆記』) ●慶喜の後見職辞職・守衛総督就任・長期滞京願望 実は、もともと、慶喜及びその側近には後見職辞職・守衛総督就任による長期滞京願望がありました。『続再夢紀事』によれば、1月9日に行われた参豫集会に先立って一橋邸に呼ばれた越前藩士に対し、一橋家臣が慶喜の臨席の下、「(容保が征長副将になった際には春嶽が守護職になることが妥当であり、そうなれば)中納言殿にハ御後見を辞し、専、京都御守衛・公武御一和の事のミを負担し、諸事、春嶽殿と共に御相談」したいと述べ、春嶽が同意すれば、集会でこの点について周旋するよう依頼しています。しかし、どういう心境の変化か、その日の集会で、総督就任・長期滞京が発議されると、慶喜は長期滞京しては江戸の幕政が疎かになる・・・と消極的な姿勢をみせています(こちら)。慶喜サイドに密かな後見職辞職&守衛総督・長期滞京願望があったところへ、摂海防御の重要性・緊急性が高まり、今なら誰にも反対されないとみて、一度引っ込めた案を出してきたというところではないしょうか。 ●春嶽との距離 それにしても、こんな重大事を守護職である春嶽に事前にも事後にも相談もせず朝廷に上げるとは・・・しかも、前日に春嶽は慶喜に幕政一新を説いたばかりです。ここにも慶喜や幕府の越前藩への「忌憚」や「冷淡」さがみえますね・・・。慶喜・幕府からではなく、中川宮から情報を得ることになった春嶽の心中やいかに・・・。春嶽は、3月18日付伊達宗城宛書簡において、宗城に慶喜の総督願いについて報じますが、書簡中、総督に就任すれば守護職がなくても「宣敷」、そういう事情で「諸事荊棘塞路(けいきょく・かんろ)候事」なのではないか、という見方を示しています。翌13日、越前藩では守護職の辞職を内決しますが(こちら)、この件も影響しているのではないかという気がします。 参考:『続再夢紀事』三p16、『徳川慶喜公伝』三p27~30 、『昔夢会筆記』p28-29 (2010/7/3) 関連:■テーマ別元治1「慶喜の後見職辞職/総督・指揮職就任」 ■二条城会議 【京】元治元年3月12日、伊達宗城・島津久光は御用部屋において、一橋慶喜・幕閣と「両都両港」の開港、長州末家等大坂召喚時の警衛、公卿邸への諸藩士立ち入り取締りの件などについて意見を交換しました。 宗城・久光は、2月16日に御用部屋入りを許可されていました(こちら)。 参考:『伊達宗城在京日記』p372-375、『玉里島津家史料』ニp756(2010/5/1) 関連:■テーマ別元治1「参豫会議解体」 ■その他の動き 【京】中川宮、松平春嶽に島津久光の帰国願いについて内談。(『伊達宗城在京日記』) 【京】筑前藩士久野一角、宗城を訪門。戸川佐五右衛門らの長州行の結果を語る。 【京】会津藩(軍事総裁職)の唐門・蛤門、越前藩の建春門(日御門)、松江藩主の堺町門警備を免じ、会津藩に堺町門、越前藩(守護職)に唐門・蛤門、郡山藩に建春門警備を命じる |
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