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元治元年3月15日(1864年4月20日)
【京】松平春嶽、守護職辞任の意を一橋慶喜に伝えさせる/
【京】中川宮、薩越退京後の政情(水・因・備の勢力拡大)を危惧
慶喜に対し、薩摩藩との融和を説得する意図を示す
【京】川越藩山田太郎左衛門、越邸を訪ね、
朝幕の不評判を告げて春嶽の守護職辞任を忠告


☆京都のお天気:朝雨陰(久光の日記より)
■春嶽の守護職辞任
【京】元治元年3月15日(1864年4月20日)、越前藩士中根雪江は一橋家平岡円四郎・黒川嘉兵衛に面会し、松平春嶽の守護職辞任の意を伝えました。平岡は辞職の撤回を求めました。

越前藩では13日に守護職辞任を内決していました(こちら)が、相当の理由を得る必要があると考えていました。そうした折、神奈川刊行の外国新聞(日本貿易新聞44号)が、越前藩士と久留米藩士の開国に関する議論の筆記を、春嶽の建白書(案)と誤って伝えました。建白書は開国を是とするもので、朝幕の方針に反するものでした。越前藩ではこの建白書を辞職理由にすることにし、中根が一橋邸を訪ねました。

やりとりはこんな感じ。
中根 目下、横浜鎖港交渉中であるのに、開港を主張する大蔵太輔(春嶽)が要職にいては「廟謨の障碍」となり、朝廷のお覚えもどうなるか計り難いので、辞表を提出することに決した。中納言殿(慶喜)によろしくお伝えあるように。
平岡 「内外多事の今日」、そうなれば「中納言殿孤立百事為すへからざるに至」ってしまうので、幾重にも御辞職の事は思いとどまられるよう願う。
中根 このことは、大蔵太輔は再三再四考慮のうえ決心したことであり、思い留まることはないだろう。
平岡 外国人へ上書案を漏洩した者の罪を糾してこの件を落着させてはどうか。
中根 (平岡は表面上の義理立てであれこれ言うのだろうと考え)就任後間もない辞職は廟議軽忽の嫌いがあるとの御考えであれば、敦賀港守衛の職にでも転任を命ぜられてはどうか。
平岡 中納言殿へ申し上げ、明日夕方までに御相談したい。
黒川 敦賀守衛の件は妙案である。万一、止むを得ず御辞表を受け入れる場合はそういうことも然るべきだろう。


【京】その後、中根は中川宮(尹宮)を訪問し、春嶽の守護職辞任の意を伝えました。中川宮は、薩摩藩がいよいよ帰国するという話もあり、春嶽が守護職を辞任して、薩越が去れば、因幡・水戸・備前藩が勢力をのばし、今後形勢が一変するかもしれない(「薩越引去らんには因水備等再び行わるべきか。さては今後如何の形勢に一変すべしや」)・・・と「痛く御当惑の御模様」だったそうです。

また、中根が、慶喜の「京都御守衛総督」の沙汰の内願の件についてきくと、中川宮は慶喜が願うのであればどのようにでもなるだろうが、幕府が「薩を容れされハ他にむつかしき事を惹き起す」だろうから、今は何よりこのことを慶喜に説得するつもりであると、述べたそうです。

<ヒロ>
因幡・水戸・備前は慶喜の実の兄弟が藩主です。いずれも鎖港攘夷派で長州シンパです。越前藩が退京すれば、薩摩藩も退京するだろうし、そうなれば、慶喜が三藩の入説を受けて長州寄りの姿勢を見せるのではないか、また8.18政変前の状況に戻るのではないか・・・と心配しているのだと思います。(8.18政変において軍事力という面で多大な貢献をした会津藩はどうなの?って感じですが・・・政治面では期待されていないようです^^;)

ところで、中川宮は、春嶽の守護職就任1週間後の2月13日には、伊達宗城との内談中に、「春岳守護職も不宣」と話しています。となると、「春岳守護職も不宣」というのは中川宮の意見ではなく、朝廷内の評判を伝えたのだとみるほうが自然でしょうか・・・。

【京】同日、川越藩家老山田太郎左衛門が越前藩邸を訪ね、応対した家老狛山城に対して、朝幕・諸藩における不評判を伝え、春嶽の守護職辞任を勧めました

山田は、春嶽の守護職就任以来、「朝幕をはじめ諸藩に於て御評判宣しからず。依然御奉職あらば如何なる御不都合を生ずべきや測りがたければ此際御辞表を捧げられては如何」かと述べたそうです。狛は、春嶽も過日来「其機を察し」て既に辞職を決意し、本日、内々ながら慶喜と中川宮にその意を内申したことを伝えました。

<ヒロ>
川越藩主松平直克は総裁職です。翌日、一橋家臣の黒川嘉兵衛が、越前藩士中根雪江らに対し、朝廷からは「殿下及び尹宮(=中川宮)よりさる御沙汰(=解免の沙汰)もありたれど、幕府にては未だ左まで切迫の評議はあらざるなり」と語っています。直克は、春嶽が朝・幕から迫られて守護職を辞任する前に、自ら辞表を提出したほうが丸く収まると思って、家老を派遣したのではないでしょうか。(一方、容保の守護職再任の沙汰は2月24日に二条関白から慶喜に伝えられています(こちら) 

朝廷において春嶽が不評な理由は明確にはされていませんが、開港派だという点が大きいのでしょうか。孝明天皇が、容保に執着しているという点も影響していると思いますが(容保の守護職解任直後の2月16日には容保に宸翰を与えて任務完了後の守護職復帰を要請 こちら)。といっても、朝廷サイドでも、中川宮・近衛前関白・山階宮などは、この後、春嶽の守護職在任の必要性を主張しますので、色々な見方があったようです。

なお、この後、17日に春嶽の辞表内願書を提出するために川越藩邸を訪れた中根に対して、応対した家老山田太郎左衛門は、改めて、慶喜・側近及び幕閣の越前藩に対する猜疑を語っています(こちら)

参考:『続再夢紀事』三p34-36(2002/4/25、2010/6/6)
関連:■テーマ別元治1 「春嶽の守護職就任・辞任

■その他の動き
【京】午後、宗城、中川宮訪問(『伊達宗城在京日記』p379)

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