慶応3年年3月17日(1867.4.21)、伊東甲子太郎は、4日前に新選組分離を申し出て近藤の了承を得てからずっと探していた分離後の宿舎がいまだ決まらず、途方にくれてしまいました。 「三条日夜別舎を周旋すれど成らず、百計既になりてこの一事を欠く」(伊東甲子太郎「九州道中日記」) <ヒロ> 九州において大宰府の尊王派公卿や志士たちに疑われながらも、命がけで分離策の理解を求めて成功し、御陵衛士も拝命することができ、近藤らや町奉行と会津藩の説得にも成功した伊東でしたが、うかつにも分離後の宿舎を予め決めることをしていませんでした。ほんとうに残念そうな気持ちが伝わる日記です(^_^;)。 伊東は御陵衛士の頭ですが、同志を「友だち」「誓いある人」と呼ぶ彼らしく、自らも屯所をさがしてかけまわっていたようです。落ちつき先の寝回しもしないまま分離を申し出るなど間の抜けた話ですが、分離が了承される前に宿舎の周旋をするのは礼に失すると思っていたのかもしれません。 こういうところからも、伊東は策士だなんていう作られたイメージからは程遠い人だなあと思えるのです。衛士たちも似たりよったりで、そういうことに気のきくひとがいなかったのかもしれません。(たとえば、これが近藤・土方なら準備万端で、抜かりはなさそうでしょう^^?) 関連:「九州行道中記」@衛士館、御陵衛士日誌「慶応3年(2)」@衛士館 |