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元治元年3月18日(1864.4.23)
【京】春嶽の守護職辞任:越前藩、一橋慶喜に辞表(内願書)提出。
二条関白・中川宮・宗城・久光にも次第を報告
【京】二条関白、会津藩に守護職復職を速やかに請けるよう促す


☆京都のお天気:微雨(久光の日記より)
■慶喜の禁裏守衛総督・摂海防御指揮就任

【京】元治元年3月18日朝、伊達宗城は、薩摩藩士大久保一蔵を介し、島津久光に、一橋慶喜の「京摂守衛総督」就任に関する疑惑を唱え、粉骨尽力すべきかを相談しました。

この日の朝、宇和島藩邸を訪ねた薩摩藩士大久保一蔵に対し、宗城は、次の事を久光に伝えるよう申し付けました。

一橋が願い通り「京摂守衛総督」になり、在京諸侯退京になれば、「兵権」もなくなる(注:ここでは、慶喜の総督就任にともなう守護職廃止が前提にされている)。橋公は講武所の輩では「安心」できず、他に「依頼之藩」があるはずだ。それは「兄弟にて水因備(=水戸藩・因幡藩・備前藩)之類」と察せられる。
(将軍後見職を辞して禁裏守衛総督となれば)主上を擁して「天下に号令」し、将軍が帰営されれば、、鎖港談判などについては、「其身政府を遁れ、且、禁闕に潜み、安心故、水始之入説にて厳敷関東へ懸合、終ニ人心之帰し候様、密策、不臣之謀計」と察せられる。
しかし、その結果、「外夷共関東へハ無頓着、摂海へ来、帝都ニ出て応接」せよと申し、幕府が戦端を開き、長因備へも攻撃をしかける事だろうと存じる。
右の情勢は「顕然」としているが、このまま「傍観」すべきか、「今一般粉骨尽力」致すべきか、相談したい。

<ヒロ>
●宗城の慶喜への疑惑(憶測)
京摂守衛総督には軍事力(+経済力)が必要となります。ところが慶喜は徳川宗家の家族である一橋家の当主であり、固有の兵力(+財政基盤)をもちません。宗城は、その慶喜が、軍事力(+経済力)を必要とする新設ポストを希望していることに不自然さを感じ、その分を実の兄弟が藩主を務める水戸藩・因幡藩・備前藩(いずれも鎖国攘夷に熱心で長州に同情的)に頼るのではないかという疑惑をもっています。また、総督職への就任に伴って後見職を辞することにも着目し、幕府の役職から自由になった慶喜が朝廷に「潜み」、天皇を擁して天下に号令し、将軍東帰後は、鎖港交渉を幕府に厳しく催促し、人心を掌握しようとしているのではないかとまで疑っています。

かなりの不信感がうかがえますよね。総督職が幕府の役職ではないという認識をもっていることもうかがえると思います。

宗城は、慶喜の総督就任願いについて、3月16日の日記では、「矢張水因長之策略、会稽の恥を雪之意にて一橋大罪ニ落入不知」と記していましたが、今回は慶喜自身に対する疑惑がメインになっています。(日記を読んでも、その間、何か具体的なことがあった風ではないのですが、考えれば考えるほど・・・という感じでしょうか。それとも春嶽からの書簡↓も影響しているのでしょうか。書簡を受取ったタイミングと一蔵が訪ねてきたタイミングが不明なのでなんともいえませんが・・・)。

参考:『伊達宗城在京日記』p385-386(2010/7/3, 9/23)

【京】元治元年3月18日、春嶽は伊達宗城に書簡を送り、先日中川宮から聞いた話として、一橋慶喜及び老中・総裁職が各々二条関白と中川宮に慶喜の「京坂守衛総督」任命を内願したこと、朝議は多分任命と決していること、慶喜の総督就任後に将軍が東帰する様子であることを報じました

●春嶽の慶喜への疑惑(憶測)
なお、春嶽は、慶喜が総督に就任すれば「守護職無之候而も宣敷」、これらの事情ゆえに「諸事荊棘塞路候事」との「推察」を示しています。

<ヒロ>
春嶽の「推察」は、平たくいえば、慶喜が総督になれば守護職は不要になるので、慶喜や幕閣が春嶽に「冷淡」になったのだ、っていうことだと思います。

参考:『続再夢紀事』p43-44(2010/7/3)
関連:■テーマ別元治1「慶喜の後見職辞職/総督・指揮職就任」


■春嶽の守護職辞任
【京】元治元年3月18日(1864年4月23日)、越前藩士中根雪江・酒井十之丞は一橋藩邸を訪ね、応対した黒川嘉兵衛に、守護職の辞表(内願書)を差出、一日も早く解職を決定するよう求めました。

さらに、閣内において、越前藩が敦賀海警備の事を申し立てたのは「私事に渉り希う所あるべし」など評しているときくが(川越藩家老山田太郎左衛門の情報:こちら)、本藩はそのような「鄙劣の望」はないので、これも心得るよう申し入れました。

その後、両名は二条関白を訪ねて辞表を差し出して事情を説明しました。また、中根は尹宮(中川宮)、酒井は伊達宗城を訪ねて辞表を出した経緯を述べました。酒井は宗城に<昨日(春嶽が)直書を以て知らせた通り、「近日甚以朝廷御不首尾」で守護職解任の沙汰があるかもしれない上、川越藩家老(=山田太郎左衛門)からも「幕之方も(春嶽は)薩のよたれをなめ候」など「疑念甚」しいと内々に知らせがあった。「朝幕之御模様探索」したところ、「事件は不分候得共首尾は不宣」、万一解任となれば「弥(いよいよ)不都合」なので辞表願いを今日差し出した>という趣旨の話をしたそうです。

また、島津久光のもとへは家老狛山城が赴き、辞表を出した経緯を説明しました。これをきいた久光は<最初から「御望なき事を強て命」じられた上、近日の模様は「以の外」な次第であり、御辞退は尤もだが、「廟議のしか転変する事は甚残念」である>と語ったそうです。このとき、小松帯刀は、今日の景況に至った上は速やかに帰国すべきだが、その際に「何とか威力を示して此地を去るべし」といろいろ評議をしていると明かし、藩議が定まれば相談したいと述べたそうです。

参考:『続再夢紀事』三p42、『伊達宗城在京日記』p383-384(2010/6/26)
関連:■テーマ別元治1 「春嶽の守護職辞任

■容保の守護職再任
【京】元治元年3月18日(1864年4月24日)、関白二条斉敬は、会津藩士を呼び出し、越前藩が守護職を辞職するので、守護職復職を速やかに請けるよう促しました。会津藩は、容保の病気快復までは何ともいえないと返答することに決めました。

この日、会津藩士小野権之丞が関白に呼び出されましたが、不快のため、代わりに手代木直右衛門が二条邸を訪ねました。応対した用人高島右衛門は手代木に、<越前家では「専ら表向鎖国を主張致居なから開国之取計致」している。そのような「表裏之取計」では守護職を務められないので、「職分を引、摂海之御固ニても持度」志願している。後任がなくてはならぬので速に復職の「御受」を上申するように>と伝えたそうです。

これに対し、会津藩では、「(容保の)御快気迄ハ何共難申上段」と返答すること決まりました。

<ヒロ>
二条関白は、2月24日、二条関白が参内した慶喜に対し、「守護職を更に会津家に命ぜられるる様に」との沙汰を伝えていました(こちら)。これは孝明天皇の叡慮に基づく沙汰だったのですが、幕府が行動を起こさなかったため、3月9日、二条関白は、参内した慶喜をつかまえて、容保の守護職復職が遅れている理由を質していました(こちら)。それでもなかなか復職が実現しないので、いよいよ直接、会津藩に働きかけることにしたようです。

参考:『会津藩庁記録』四p317-318(2010/6/27)
関連:■テーマ別元治1 「容保の守護職再任」■「とことん京都守護職会津藩」

■その他の動き
【京】春嶽、宗城に8条から成る書簡を送る。(『続』三p43-46)
【京】宗城、17日の春嶽書簡に返信する(『続』三p46-47)
【京】東山曙亭にて、尾張・水戸・加賀・筑前・備前・因幡・津藩等の在京諸藩士、及び尾張藩附家老成瀬正肥の家士、攘夷を議す。(『維』五)
【坂】大坂町奉行与力北角源兵衛、殺害され梟首される。(『甲子雑録』)
【長州】藩主毛利敬親、末家ら3名の大坂召命につき、藩士に父子どちらかによる率兵・大挙上京を告げる。また、吉川監物に召命を断らせる(『維新史料綱要』五)

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