4月トップ 幕末日誌元治1 テーマ別日誌 開国-開城 HP内検索  HPトップ

◆3/23へ  ◆3/25へ

元治元年3月24日(1864年4月29日)
【京】慶喜の禁裏守衛総督・摂海防御指揮職に、
守護職は会津・越前両藩にとの朝命


☆京都のお天気:雨(久光の日記より)
■慶喜の総督・指揮辞任
【京】元治元年3月24日、朝廷は幕府に対し、一橋慶喜を禁裏守衛総督・摂海防御指揮とし、後見職を解任する旨の沙汰を下しました。


「禁裏御守衛総督、摂海防御指揮等、被仰付候。是迄後見職仰付置之処、今般依内願、被免候。但大樹在京中は、以前同様心得可有之旨、御沙汰候事」(『徳川慶喜公伝』史料編ニp58) (句読点byヒロ)

<ヒロ>
前日の朝議を受けての沙汰となります。

この日、近衛前関白は、宗城に対し、結局従来通りの沙汰を下すことになった経緯を書簡にて次のように知らせています。「一橋総督之一件、昨日朝廷之議論甚以六ヶ敷、山階宮之説も之有、矢張過日来之通、今日可被仰出ニ御治定相成候事」。

なぜ、朝議が紛糾したのか・・・3月26日に薩摩藩士高崎正風が宗城に伝えた情報によると、22日の時点では、前関白・中川宮は、宗城の入説を受けて、慶喜を「摂海防御総督」だけに任命するつもりだったそうです。ところが中川宮が内密に慶喜に情報をもらし、大坂だけでよいのかと打診したため、慶喜が「両地」を「懇願」したため、結局、23日の朝議では、禁裏守衛総督・摂海防御指揮に任命することになったというのです。高崎は、中川宮が、後日何かあったときに、今、慶喜の歓心をかっておけば、自分の有利になると考えたからだと述べています(「廿二日御談合にて摂海防御総督云々御座候処、其事、極密、尹宮より橋へ御もらし、大阪計にても宣哉と有之故、(慶喜が)両地懇願候由にて、(中川宮がこういう言動にいたったのは)後日、何等変動を生候時、一橋に今日悦を被入置候はば(=今、慶喜の歓心を買っておけば)、御身為になるゆへと奉存候」。)

参考:『伊達宗城在京日記』p393,394 397-398『徳川慶喜公伝』史料編ニp58(2010/9/23、2010/9/30)
関連:■テーマ別元治1「慶喜の後見職辞職/総督・指揮職就任

■春嶽の守護職辞任、容保の守護職復帰問題
【京】元治元年3月24日、朝廷は幕府に対し、会津藩・越前藩の両藩に京都守護職をと伝えました。


<ヒロ>
前日の朝議の結果を伝えています。ただし、慶喜の総督・指揮任命の沙汰とは違って、こちらは沙汰書が伝わっていません。この件は、その後も朝議で議論が続いていますし、口頭で伝えただけなのかもしれません。

両藩に守護職を命じるようになった背景(朝廷の方針転換)は23日の「今日(こちら)」で。また、26日の「今日」(こちら)にても。

参考:『伊達宗城在京日記』p393,395(2010/9/23, 9/28)
関連:■テーマ別元治1 「春嶽の守護職就任・容保の守護職再任問題

【京】将軍家茂、召により参内。有栖川宮、二条関白、鷹司前関白らと常御殿で酒を賜う。

◆3/23へ  ◆3/25へ
 
4月トップ 幕末日誌元治1 テーマ別日誌 開国-開城 HP内検索  HPトップ