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元治元年3月23日(1864年4月28日)
【京】春嶽の守護職辞任:越藩中根・酒井、二条関白に春嶽の守護職辞職を入説。
一橋家平岡、容保の病気を理由に春嶽の辞職猶予を求める。
さらに海軍総裁・摂海砲台築造担当への転職を提案し、春嶽の不興を買う。
【京】朝廷、慶喜の総督・指揮任命及び会・越両藩への守護職任命を決める
【京】参豫の幕政参加:再度の御用部屋辞退
【京】幕府、守護職・町奉行・新選組に市中守衛を命じ、諸藩の警衛を廃止する。


☆京都のお天気:陰晩雨(久光の日記より)

■春嶽の守護職辞任
【京】元治元年3月23日、越前藩士中根雪絵・酒井十之丞は二条関白を訪ね、前藩主松平春嶽の守護職辞職を許容するよう入説しました。
このとき、関白は、一橋慶喜の家臣から、会津藩主松平容保の病気快復までの間の春嶽守護職留任の申し入れがあったことを伝えましたが、両名は、それはいよいよ不本意だと述べました。

やりとりはこんな感じです。
中根・酒井 昨日、川越藩四王天から聞いたところ、大蔵太輔の辞職を許容せぬようにと、殿下より一橋・川越に御沙汰があったとのことです。既に辞表を提出した今になって、そのような事を仰せ出されては如何にも迷惑でございます。
二条関白 辞職されたことは聞いているが、素より内々の事なので、他にはばかることはない。その後「当路の向より申出の旨」もあって、一存で一橋へ書面を遣わし、川越にも伝えたのである。そのために大蔵殿の迷惑となっては気の毒な次第であるが、既に今日も一橋より平岡・黒川の両人が来て、「会津の病気追々快方には運ひたれと、未だ重任を負担し得べき程にいたらず故に、復職は命ぜられがたし。されば病気平癒までの間、大蔵殿在職ある様にと」主張していった。如何すべきであろう。「所謂板狭み」というわけで、甚だ当惑している。
中根・酒井 (守護職の)「職務を奉ずるには、金穀は勿論自身を抛(なげう)ちて従事する事なるを、後任者の病気快気に至る迄の間などとありては、いよいよ不本意の至り」でございます
二条関白 如何にも尤も至極である。それでは、後刻参内の上、尚厚く評議に及ぼう。
(注:引用部分について、カタカナは平かなに直しています。また、適宜、句読点をうっています)。

<ヒロ>
越前藩は、辞職の願書を3月17日には総裁職松平直克に(こちら)、翌18日には将軍後見職一橋慶喜に差し出しています(こちら)が、あくまでも内願書であったので、21日、手続きを整えるために公式な願書を出しました。春嶽の守護職辞任は会津藩主松平容保の守護職復帰とセットになっていたのですが、なんと、同じ日、容保の守護職復帰を強く主張してきた関白二条斉敬が一橋慶喜に直書を送り、春嶽の守護職「解免なき方然るへき旨」を伝えてきましたこちら)。この情報は、翌22日、川越藩士四王天兵亮によって越前藩にもたらされました。そのとき、四王天は、二条関白の意見が変ったのは会津藩の入説であることを伝え、越前藩も関白に働きかけるべきだと助言していました。それを受けての、中根・酒井の行動となります。

同日、一橋家臣平岡円四郎が越前藩を訪ね、春嶽の守護職辞職猶予、及び海軍総裁・摂海砲台築造担当への転職を打診しました。

最初、越前藩側からは島田近江、酒井十之丞、中根雪江が出て平岡に応対しました。

やりとりはこんな感じ↓
平岡 既に辞職の願書も提出された今日ではあるが、中納言殿(=慶喜)は最初、(春嶽を守護職に)推薦されており、此節退職される事を「甚安からず」思し召され、今、5〜7日の間、辞職を見合わせていただき、その間に(春嶽に対する朝幕の)「嫌疑の起れる原因を索ね、充分説解に及び、朝幕とも旧の如く御依頼ある事になされ度御見込」である。
島田 一藩の人心は既に「阻喪」しており、大蔵太輔も奉職の意思がないので、5-7日であっても到底辞職を見合わせることには至り難い。
平岡 (春嶽の守護職)御奉職以来、未だ日を経ず、殊に御過失等もなく御退職に至ることを、中納言殿は「深く御気之毒」に思われ、種々周旋も致される事だが、是非とも守護職を辞任されるのであれば、この際、「海軍総裁」を担当されては如何だろう
中根 今からそのような職務を命ぜられても「有名無実にて何の詮も」ないだろう。
平岡 では、摂海(=大坂湾)の砲台築造を担当されては如何か。この事業には(幕府が?)凡そ金15万両を出されるはずである。
中根 そのような事業に係る「事務」はいよいよお断りする。
(注:引用部分について、カタカナは平かなに直しています。また、適宜、句読点をうっています)。

平岡は「頗る困窮の躰」だったそうです。

この後、平岡は、さらに春嶽に謁して、直接辞職猶予の件を申し入れました。春嶽は、辞表を出した以上、2−3日の猶予もすべきではないが、辞表を容れるかどうかは幕議次第なので、強いて留任というのであれば、猶予が10日、20日になっても幕議次第だと言ったそうです。また、平岡が海軍総裁や砲台築造の話を持ち出すと、春嶽は「甚だ不興の面色」で、こう答えたそうです。

<「人を撰用するは各材器に随」うべきである、もし拙者の材器が「守護職には短なれども海軍総裁には長せり」というならば転職も然るべきだが、「朝幕より嫌疑を受し為め職を辞する者」に強いて職名を付しても「何の詮かある」。殊に摂海砲台の件は、「到底国力に応ぜず」>。

春嶽は、時日が移っては難事を醸成するだけなので、一日も早い罷免を慶喜に言上するよう平岡に命じ、平岡も承知して退出したそうです。

<ヒロ>
●慶喜サイドが「摂海砲台築造」担当を春嶽に打診したわけ(想像)
守護職辞任猶予の話は、二条関白の沙汰を受けてのことだと推測できますが、海軍総裁・摂海砲台築造は唐突ですよね。ま・・・どちらにしても、春嶽にとっては唐突な提案ですから、むっとするのもわかる気がします。17日に、川越藩から慶喜/側近が越前藩に猜疑心を有しているという情報を得たばかりですし((こちら)

でも・・・わたしは、これは、慶喜サイドが唐突に思いついたことではなく、前日(22日)、伊達宗城と島津久光が中川宮と前関白近衛忠熙に慶喜の「京坂守衛総督願望」に関して疑惑を唱え、総督任命の熟考を申し入れたことと関係があるような気がします。

宗城らは、徳川宗家の一族である一橋家当主であり、固有の兵力(+経済力)のない慶喜が、「京摂守衛総督」のポストを希望していることに不自然さを感じており、その不足分を実の兄弟が藩主を務める水戸・因幡・備前藩(鎖港攘夷推進+長州に同情的)に頼るつもりではないか、と疑っていました。もし、春嶽が「摂海砲台築造」を担当すれば、摂海防御の面では、慶喜のもつ兵力(+経済力)面での弱点はかなりカバーされることになります。その上、水戸・因幡・備前を京都政局の中枢に呼び込むのではないかとの疑惑を抑えることも可能です。(ちなみに京都守衛については、宗城らは慶喜が守護職を廃止するつもりだと疑っていましたが、慶喜は守護職の軍事力を頼んでいると話しています(『伊達宗城在京日記』p394))。

それに、平岡が提案した「摂海砲台築造」担当ポストは、宗城と久光が「京摂守衛総督」の代替ポストとして中川宮らに提案した「摂海新砲台守衛総督」(3/22)と似通っていて、そこからアイデアを得たようにも思えます。春嶽を「摂海砲台築造」担当ポストに据えることによって、宗城らの提案を無意味にし、慶喜の「京摂守衛総督」ポスト就任を容易にしようとした可能性もあるんじゃないか・・・と思います。

実は、この日、慶喜の「京摂守衛総督」任命に関する朝議が開かれています。朝議を前に、中川宮あたりが、慶喜に、<摂海の総督だけではどうか?たとえば新砲台守衛とか?>等、密かに打診した可能性があるのではないでしょうか???それに対して、慶喜が春嶽の「摂海砲台築造」担当を逆提案し、その後、平岡を遣わして春嶽に提案させたというように思えるのですが・・・。(朝議の結果は↓)

参考:『続再夢紀事』三p52-56(2010/9/22, 9/23)
関連:■テーマ別元治1 「春嶽の守護職就任問題

***追記***(2010/9/23)
『伊達宗城在京日記』を読み進めていたら、3月26日の日記に、薩摩藩士高崎伊勢から聞いた話として、中川宮が慶喜に22日の談合の内容を一部もらし、「大阪計にても宜哉」と打診したと書かれていました。慶喜は「両地(京都・大阪)及懇願候」だったそうです。(詳しくは26日の「今日」でこちら

慶喜の禁裏守衛総督・摂海防御指揮就任
【京】元治元年3月23日、朝廷は一橋慶喜を禁裏守衛総督・摂海防御指揮に任命することを決めました。


<ヒロ>
慶喜の「京摂守衛総督」願望については、慶喜の意図に疑惑をもった宗城が中心となって久光も巻き込み、朝廷に反対を入説してきました。前日の近衛邸における集会(前関白、中川宮、久光、宗城参集)でも、慶喜の「京摂守衛総督」願望に関する疑惑を力説し、中川宮も「愕然焦慮」させていました。どうすればよいのか尋ねた中川宮に対して提案した代替ポストは「摂海新砲台守衛総督」でした(こちら)

結果として、宗城の運動は実りませんでした。翌24日に宗城が近衛前関白から得た情報によれば、「一橋総督之一件、昨日朝廷之議論甚以六ヶ敷、山階宮之説も之有、矢張過日来之通、今日可被仰出ニ御治定相成候事」と、結局、従来の通り任命の沙汰を幕府に下すことに決まったそうです。

参考:『伊達宗城在京日記』p392(2010/9/23、9/28)

■春嶽の守護職辞任+容保の再任
【京】元治元年3月23日、朝廷は守護職を越前・会津の両藩に命じることに決めました。


<ヒロ>
●朝廷の方針転換
3月26日に中川宮が越前藩士中根雪江に語ったところによると(こちら)、朝廷が両藩に守護職を命じたのは以下の理由からでした
(1) 慶喜の軍事力不足に対する不安:慶喜に禁裏守衛総督を命じたものの、(徳川宗家の家族である一橋家当主の慶喜には固有の)兵力がない。「無二の忠誠」を有する両藩の兵力で京都を警衛させることによって、その弱点をカバーさせたい。
(2) 慶喜自身に対する不安:慶喜の「人となりは時々転変」するので、今後どのような「随意の事」があるかわからない。そうなったときに慶喜を正すことできるのは春嶽だけであり、春嶽が在京していれば天皇も安心である。

当初、朝廷(孝明天皇・二条関白ライン)は、孝明天皇の意思に基づき、前守護職の容保の再任を強く求めてきました。この容保の再任と現守護職の春嶽の解免はセットになっていました。

容保の守護職復職については、2月24日、二条関白が慶喜に対し、「守護職を更に会津家に命ぜられるる様に」との沙汰を伝えました(こちら)が、「更に」という表現からも、この時点では、春嶽の解職までは求めていなかったようです。しかし、時期不明ながら、二条関白・中川宮が春嶽の守護職解任の沙汰を幕府に伝えたとされており(こちら)、春嶽が辞表の内願を出した3月18日には、会津藩に容保の再任受諾を強く促した(こちら)ことからも、途中から容保の再任と現守護職の春嶽の解免はセットになっていたことがわかると思います。

さて、当事者である春嶽は、朝廷側の動きとは別に、旧態依然とした慶喜・幕閣への失望感から辞職・帰国を希望していましたが、一方の容保(会津藩)は、国力疲弊につながる守護職再任を希望せず、容保の病を理由に再任に抵抗しました。このままでは守護職不在という事態になりかねません。

そんな折に再浮上したのが、越前・会津の両藩に守護職を命じるという案です。朝廷にとって、容保の再任は孝明天皇の意思なので既定方針ですので、春嶽を解任とする方針が留任に転じたというほうがより正確でしょう。

春嶽の留任(滞京)は近衛前関白や中川宮の強く希望するところでした。中川宮は、3月15日に春嶽の辞意を聞かされて、春嶽辞任・帰国し、薩摩も退京すれば、慶喜の実の兄弟が藩主である水戸・備前・因幡藩(鎖港攘夷派だけど長州シンパ)が勢力を伸ばし、形勢が一転するのではないか、と当惑していました(こちら)。また、3月22日、近衛前関白・中川宮は、禁裏守衛総督に就任する慶喜には「例の己を恃(たの)む癖」があることから、今後、「気随の挙動」を起こすのではと懸念しており、慶喜を掣肘する存在として、春嶽が守護職に留任・滞京することが必要だとの考えを、宗城・久光に話しています。もともと慶喜に対する不信感があるところへ、宗城から慶喜に対する疑惑を聞かされ、さらに春嶽留任への思いが固くなったのではないでしょうか。同日、中川宮から両藩に守護職を命ずる案を聞かされた伊達宗城が、「両人共守護職に候はば御手厚にて可然」「越会なら其患(=互いに不平を生じるのではないかという懸念)は有之まじくと存候」と答えたことも、意を強くさせたのではないかと思います(こちら)

この日の朝議がどのようなものだったのかわかりませんが、近衛前関白・中川宮が、慶喜の禁裏守衛総督任命にあたって、春嶽の守護職留任の必要性を強く説いたのではないでしょうか。

参考:『伊達宗城在京日記』p392、『続再夢紀事』三p58-60(2010/9/23、9/28, 10/1)
関連■テーマ別元治1「会津藩の守護職更迭問題・春嶽の守護職就任問題

■その他
【京】再度の御用部屋辞退(『伊』)p391
【京】幕府、守護職・町奉行・新選組に市中守衛を命じ、諸藩の警衛を廃止する(『維』五)p182

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