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☆京都のお天気:雨(久光の日記より) ■慶喜の禁裏守衛総督・摂海防御指揮就任 【京】元治元年3月25日、将軍家茂は、一橋慶喜に対し、朝廷から下った禁裏守衛総督・摂海防御指揮任命・及び将軍後見職の解任の沙汰を伝えました。
<ヒロ> 前半部分が朝廷からの沙汰であり、後半が将軍の沙汰となります。 ●禁裏守衛総督・摂海防御指揮の朝臣的色合い この沙汰の興味深い点は、上記の文面が朝廷からの沙汰に基づいて幕府(将軍)が任命・解任する・・・という文面になっていないことです。 たとえば、文久2年7月の慶喜の後見職就任も勅諚に基づくものでしたが、そのとき、将軍は「此度、以叡慮被仰下候に付、後見相勤候様に」と慶喜に伝えたと記録されています。朝廷からの沙汰に基づき、将軍(幕府)が任命する・・・という形です。 ところが、今回、将軍は朝廷からの総督・指揮任命及び後見職解任の沙汰をそのまま慶喜に伝え、自分からは「御勉精」「御尽力」「御心副」「御後見」するよう付け足しているだけです。(しかも、慶喜への言葉遣いが違っていて、「御」がついています)。 つまり、将軍後見職のときと違い、慶喜を禁裏守衛総督に任命したのは将軍(幕府)ではなく、朝廷であり、将軍(幕府)はそれを追認する形になっています。禁裏守衛総督・摂海防御指揮職が「朝臣」職の色合いの濃いポストであった」(家近良樹氏『徳川慶喜』)ことがうかがえると思います。 松浦玲氏(『徳川慶喜 増補版』)は、同様の理由から禁裏守衛総督・摂海防御指揮職は「幕府の職ではない」と断じており、将軍が任命を行った後見職の罷免まで朝廷が行ったことも考え合わせて、「慶喜は、将軍に直属するところから解き離れて、朝廷直属になったのだ・・・これは、将軍と対等の身分になったことを意味する。天皇が征夷大将軍に任じているのと同じ次元で、天皇は慶喜を禁裏守衛総督に任じたわけだ」と判断しています。将軍からの沙汰の文面に「御心副・・・御後見」と「御」がついているのも「将軍が部下に発する言葉ではない」というわけです。 慶喜の将軍後見職辞任&禁裏守衛総督・摂海防御指揮就任ついては、当時、伊達宗城が、天皇を擁して「天下に号令」し、鎖港談判などについては「其身政府を遁れ、且、禁闕に潜み、安心故、水始之入説にて厳敷関東へ懸合、終ニ人心之帰し候様、密策、不臣之謀計」だと疑っていましたが(こちら)、そこからも、当時の人びとが、総督職が朝廷色の濃いいポストだという認識をもっていたことがわかるのではないでしょうか。 ●幕府が慶喜の将軍後見職辞職に反対しなかった事情(慶喜の回想) 後年、慶喜は「あれは別に事情というほどのことはないけれども、早く言うと、京都にいて、関東のことはどうも少し届きかねる。また、関東の方でもかねて後見はあまり望まぬのだ。それで関東の方では、ちょうどよいからここで御免になるのがよかろうといったようなわけ、こっちでは何分江戸のことを京都にいていちいちやるというわけには事実いかない。双方持ち合って、何の議論なしに済んでしまったのだ」(『昔夢会筆記』)と述べています。 参考:『徳川慶喜公伝』史料編ニp58、『伊達宗城在京日記』p393,394、『続再夢紀事』三p58、『昔夢会筆記』p227、家近良樹『徳川慶喜』p68、松浦玲『徳川慶喜 増補版』p117-119(2010/9/23) *** 【京】元治元年3月25日、禁裏守衛総督・摂海防御指揮一橋慶喜は、伊達宗城に対し、両職の就任は自分の内願によるものであると語りました。 この日、宗城は一橋邸を訪ねましたが、慶喜が登城していて留守だったので、自分も登城し、慶喜と面談をしました。 やりとりはこんな感じ↓
<ヒロ> 慶喜の「京摂守衛総督」願望については、慶喜の意図に疑惑をもった宗城が中心となって久光も巻き込み、朝廷に反対を入説してきました。3月22日の近衛邸における集会(前関白、中川宮、久光、宗城参集)でも、慶喜の「京摂守衛総督」願望に関する懸念を力説し、中川宮も「愕然焦慮」させていました。どうすればよいのか尋ねた中川宮に対して提案した代替ポストは「摂海新砲台守衛総督」でした(こちら)。 しかし、3月24日、朝廷が幕府に対して出した沙汰は京都・摂海の両方に関る「禁裏守衛総督・摂海防御指揮」でした。同日、近衛関白は、宗城に朝議で従来通りの沙汰を出すにいたった経緯を「一橋総督之一件、昨日(=23日)朝廷之議論甚以六ヶ敷、山階宮之説も之有、矢張過日来之通、今日可被仰出ニ御治定相成候事」と知らせています。宗城にしてみれば、不本意な結果です。22日の時点では入説に成功し、中川宮も近衛前関白も、慶喜に摂海防御だけを命じるつもりだったはずなのに、なぜ朝議が「甚以六ヶ敷」状況であったのか、なぜ慶喜に禁裏守衛総督を命じるにいたったのか・・・いったい、22日と23日の間に何があったのか・・・。それで、確認のために慶喜を訪ねたのだと思います。 最初、慶喜は自分が願ったのではないと白を切りますが、宗城に、この春にも後見職を辞したいために、摂海防御担当を願っていたのでないか(「当早春も御後見御のこれ(◎御のかれか)被成度故、大阪海防ても御引受御願可被成哉との御話も伺候」)と迫られ、実は自分からだと白状します。 ↑将軍が上洛する前(1月9日)、慶喜は、越前藩に対し、側近の平岡円四郎らに「(容保が征長副将になった際には春嶽が守護職になることが妥当であり、そうなれば)中納言殿にハ御後見を辞し、専、京都御守衛・公武御一和の事のミを負担し、諸事、春嶽殿と共に御相談」と述べさせ、春嶽が同意すれば、集会でこの点について周旋するよう依頼したことがありました(こちら)。宗城はこの話を春嶽から伝えきいたのではないかと思います。 慶喜は、また自ら「両方」(京都・大坂)を願ったことを認めますが、それがいつのことを指すのかは不詳です。慶喜の後年の回想では、もともと摂海防御指揮に重点が置かれていたようですので(こちら)、その後、禁裏守衛総督が加わったようにもとれます。3月16日の時点で「京摂守衛総督」という言葉が宗城の日記に出ていますから、京都方面の「総督」を願い出たのは、それより前のことになります。ただ・・・「摂海防御指揮計にて、御当地(=京都)之事更ニ関係不被致候にては不相済、疑念説も直ニ起こり候様(◎故か)両方ニ願候」という言い方からは、なんだか、慶喜に対する「疑念説」を唱え、摂海防御だけに専念させようとしていた宗城の動きを知っていて、それに弁解しようとしているとも思えます。だとすると、22日夜の近衛邸密談と23日の朝議の間に、慶喜が自分を摂海防御に専念させようという動きを知り、改めて「両方を願」ったということなのかも??、 いずれにせよ、宗城は、慶喜の発言をきいても納得せず、それどころか疑惑をさらに固めたようで、この後、水野老中と面談し、慶喜への疑惑を話します。 【京】元治元年3月25日、伊達宗城は、老中水野忠精に対し、慶喜の禁裏守衛総督・摂海防御指揮願望に関する疑念を質したところ、老中は、愕然となりました。 宗城が、水野に対して、慶喜の「願望之深意」について、兼ねてからの疑惑を話し、そのようなことではないかというと、水野は「頗愕然なり。実ニ承候てハ甚気遣との事」だったそうです。宗城は、「歎息之至、危き事」と記しています。 参考:『伊達宗城在京日記』p393−395、『昔夢会筆記』p28-29(2010/10/2) 関連:テーマ別元治1「慶喜の後見職辞職/総督・指揮職就任」 ●おさらい:慶喜の総督・指揮内願に関する宗城の疑念と朝幕の反応
■その他の動き 【京】慶喜、春嶽への書簡の追伸にて、「摂海砲築総督は如何」と「再慮」を請う。(『続』p58) 【京】有馬遠州、宗城宛書簡に「此度京阪守衛総督ハ一橋胸中より出候事。さらさら閣老之談にハ無之」という旨を記す。宗城・水野老中面談p395、中川宮面談p395-396(『伊』) 【長州】久坂玄瑞を命じ、遊撃隊木島又兵衛ら12名を同行させる。藩命を待たずに随従する者、50余人。(『維』五) |
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