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元治元年3月25日(1864年4月30日)

【京】朝命により、慶喜の後見職解任、禁裏守衛総督・摂海防御指揮職就任
【京】慶喜、宗城に総督就任は自らの内願によると認める
【京】宗城、水野老中に慶喜の総督願望の「深意」について注意喚起
【長州】久坂玄瑞に上京命じ、遊撃隊木島又兵衛ら12名を同行させる。
藩命を待たずに随従する者、50余人。。


☆京都のお天気:雨(久光の日記より)
■慶喜の禁裏守衛総督・摂海防御指揮就任
【京】元治元年3月25日、将軍家茂は、一橋慶喜に対し、朝廷から下った禁裏守衛総督・摂海防御指揮任命・及び将軍後見職の解任の沙汰を伝えました。


「禁裏御守衛総督、摂海防御指揮等、被仰付候。是迄後見職仰付置之処、今般依内願、被免候。但大樹在京中は、以前同様心得可有之旨、御沙汰候事
    三月
右之通仰被出候。猶此上御勉精、御尽力可被有之候。将又(はたまた)在京中不相替御心副、御後見被下候様ニ」
(出典:『徳川慶喜公伝』史料編ニp58)

<ヒロ>
前半部分が朝廷からの沙汰であり、後半が将軍の沙汰となります。

●禁裏守衛総督・摂海防御指揮の朝臣的色合い
この沙汰の興味深い点は、上記の文面が朝廷からの沙汰に基づいて幕府(将軍)が任命・解任する・・・という文面になっていないことです。

たとえば、文久2年7月の慶喜の後見職就任も勅諚に基づくものでしたが、そのとき、将軍は「此度、以叡慮被仰下候に付、後見相勤候様に」と慶喜に伝えたと記録されています。朝廷からの沙汰に基づき、将軍(幕府)が任命する・・・という形です。

ところが、今回、将軍は朝廷からの総督・指揮任命及び後見職解任の沙汰をそのまま慶喜に伝え、自分からは「御勉精」「御尽力」「御心副」「御後見」するよう付け足しているだけです。(しかも、慶喜への言葉遣いが違っていて、「御」がついています)。

つまり、将軍後見職のときと違い、慶喜を禁裏守衛総督に任命したのは将軍(幕府)ではなく、朝廷であり、将軍(幕府)はそれを追認する形になっています。禁裏守衛総督・摂海防御指揮職が「朝臣」職の色合いの濃いポストであった」(家近良樹氏『徳川慶喜』)ことがうかがえると思います。

松浦玲氏(『徳川慶喜 増補版』)は、同様の理由から禁裏守衛総督・摂海防御指揮職は「幕府の職ではない」と断じており、将軍が任命を行った後見職の罷免まで朝廷が行ったことも考え合わせて、「慶喜は、将軍に直属するところから解き離れて、朝廷直属になったのだ・・・これは、将軍と対等の身分になったことを意味する。天皇が征夷大将軍に任じているのと同じ次元で、天皇は慶喜を禁裏守衛総督に任じたわけだ」と判断しています。将軍からの沙汰の文面に「御心副・・・御後見」と「御」がついているのも「将軍が部下に発する言葉ではない」というわけです。

慶喜の将軍後見職辞任&禁裏守衛総督・摂海防御指揮就任ついては、当時、伊達宗城が、天皇を擁して「天下に号令」し、鎖港談判などについては「其身政府を遁れ、且、禁闕に潜み、安心故、水始之入説にて厳敷関東へ懸合、終ニ人心之帰し候様、密策、不臣之謀計」だと疑っていましたが(こちら)、そこからも、当時の人びとが、総督職が朝廷色の濃いいポストだという認識をもっていたことがわかるのではないでしょうか。

●幕府が慶喜の将軍後見職辞職に反対しなかった事情(慶喜の回想)
後年、慶喜は「あれは別に事情というほどのことはないけれども、早く言うと、京都にいて、関東のことはどうも少し届きかねる。また、関東の方でもかねて後見はあまり望まぬのだ。それで関東の方では、ちょうどよいからここで御免になるのがよかろうといったようなわけ、こっちでは何分江戸のことを京都にいていちいちやるというわけには事実いかない。双方持ち合って、何の議論なしに済んでしまったのだ」(『昔夢会筆記』)と述べています。

参考:『徳川慶喜公伝』史料編ニp58、『伊達宗城在京日記』p393,394、『続再夢紀事』三p58、『昔夢会筆記』p227、家近良樹『徳川慶喜』p68、松浦玲『徳川慶喜  増補版』p117-119(2010/9/23)

***
【京】元治元年3月25日、禁裏守衛総督・摂海防御指揮一橋慶喜は、伊達宗城に対し、両職の就任は自分の内願によるものであると語りました。

この日、宗城は一橋邸を訪ねましたが、慶喜が登城していて留守だったので、自分も登城し、慶喜と面談をしました。

やりとりはこんな感じ↓
宗城 「禁裏守護総督・摂海防御指揮之義、御願望にて」仰せ立てられたのですか?
慶喜 そうではなく、閣老より言上したと承っている。もっとも、昨日御沙汰になるだろうということは、薄々承っていた。
宗城 そうではないのではないですか?今年の初め、後見職を辞任したいため、摂海防御でも引き受けたいと願われたとの話も伺っています(「当早春も御後見御のこれ(◎御のかれか)被成度故、大阪海防ても御引受御願可被成哉との御話も伺候」)ので、矢張、「御素願」なのでございましょう?
慶喜 (一笑して)実は内願いたした。「公武とも何分御因循故」、精力を尽して相勤める心得である。
宗城 御兵権は如何されるつもりなのですか?
慶喜 「追々関東よりも参、又守護職有之故、私にハ人数ハいらぬ」。

摂海防御指揮だけで、京都の守衛に無関係というわけにはいかず、(京都を留守にすれば)疑念説も直ぐに起るので、禁裏守衛総督と摂海防御指揮の両方の任命を願ったのである(「摂海防御指揮計にて、御当地(=京都)之事更ニ関係不被致候にては不相済、疑念説も直ニ起こり候様(◎故か)両方ニ願候」)
(↑宗城は、日記に「真実不可知と存候」と書いている)

<ヒロ>
慶喜の「京摂守衛総督」願望については、慶喜の意図に疑惑をもった宗城が中心となって久光も巻き込み、朝廷に反対を入説してきました。3月22日の近衛邸における集会(前関白、中川宮、久光、宗城参集)でも、慶喜の「京摂守衛総督」願望に関する懸念を力説し、中川宮も「愕然焦慮」させていました。どうすればよいのか尋ねた中川宮に対して提案した代替ポストは「摂海新砲台守衛総督」でした(こちら)

しかし、3月24日、朝廷が幕府に対して出した沙汰は京都・摂海の両方に関る「禁裏守衛総督・摂海防御指揮」でした。同日、近衛関白は、宗城に朝議で従来通りの沙汰を出すにいたった経緯を「一橋総督之一件、昨日(=23日)朝廷之議論甚以六ヶ敷、山階宮之説も之有、矢張過日来之通、今日可被仰出ニ御治定相成候事」と知らせています。宗城にしてみれば、不本意な結果です。22日の時点では入説に成功し、中川宮も近衛前関白も、慶喜に摂海防御だけを命じるつもりだったはずなのに、なぜ朝議が「甚以六ヶ敷」状況であったのか、なぜ慶喜に禁裏守衛総督を命じるにいたったのか・・・いったい、22日と23日の間に何があったのか・・・。それで、確認のために慶喜を訪ねたのだと思います。

最初、慶喜は自分が願ったのではないと白を切りますが、宗城に、この春にも後見職を辞したいために、摂海防御担当を願っていたのでないか(「当早春も御後見御のこれ(◎御のかれか)被成度故、大阪海防ても御引受御願可被成哉との御話も伺候」)と迫られ、実は自分からだと白状します。

↑将軍が上洛する前(1月9日)、慶喜は、越前藩に対し、側近の平岡円四郎らに「(容保が征長副将になった際には春嶽が守護職になることが妥当であり、そうなれば)中納言殿にハ御後見を辞し、専、京都御守衛・公武御一和の事のミを負担し、諸事、春嶽殿と共に御相談」と述べさせ、春嶽が同意すれば、集会でこの点について周旋するよう依頼したことがありました(こちら)。宗城はこの話を春嶽から伝えきいたのではないかと思います。

慶喜は、また自ら「両方」(京都・大坂)を願ったことを認めますが、それがいつのことを指すのかは不詳です。慶喜の後年の回想では、もともと摂海防御指揮に重点が置かれていたようですので(こちら)、その後、禁裏守衛総督が加わったようにもとれます。3月16日の時点で「京摂守衛総督」という言葉が宗城の日記に出ていますから、京都方面の「総督」を願い出たのは、それより前のことになります。ただ・・・「摂海防御指揮計にて、御当地(=京都)之事更ニ関係不被致候にては不相済、疑念説も直ニ起こり候様(◎故か)両方ニ願候」という言い方からは、なんだか、慶喜に対する「疑念説」を唱え、摂海防御だけに専念させようとしていた宗城の動きを知っていて、それに弁解しようとしているとも思えます。だとすると、22日夜の近衛邸密談と23日の朝議の間に、慶喜が自分を摂海防御に専念させようという動きを知り、改めて「両方を願」ったということなのかも??、

いずれにせよ、宗城は、慶喜の発言をきいても納得せず、それどころか疑惑をさらに固めたようで、この後、水野老中と面談し、慶喜への疑惑を話します。

【京】元治元年3月25日、伊達宗城は、老中水野忠精に対し、慶喜の禁裏守衛総督・摂海防御指揮願望に関する疑念を質したところ、老中は、愕然となりました。

宗城が、水野に対して、慶喜の「願望之深意」について、兼ねてからの疑惑を話し、そのようなことではないかというと、水野は「頗愕然なり。実ニ承候てハ甚気遣との事」だったそうです。宗城は、「歎息之至、危き事」と記しています。

参考:『伊達宗城在京日記』p393−395、『昔夢会筆記』p28-29(2010/10/2)
関連:テーマ別元治1「慶喜の後見職辞職/総督・指揮職就任」

●おさらい:慶喜の総督・指揮内願に関する宗城の疑念と朝幕の反応
  • 3月16日、薩摩藩邸を訪ねた宗城に、久光は、慶喜から「京摂総督」任命の内願があったこと、守護職も廃止になるだろうこと、また在京外様藩退京の建白もあったことを知らせた。両人は、「不容易姦謀」だと「痛歎」した。
  • 3月18日、宗城は、久光に、薩摩藩士大久保一蔵を介して、慶喜の総督就任願いに関する疑惑を伝え、このまま「傍観」すべきか、「今一段粉骨尽力」致すべきか、相談した。疑惑の内容は(1)兵権のない慶喜が総督に就任し、諸侯が退京すれば、兄弟が藩主を務める水戸・因幡・備前ら(鎖港攘夷派で長州に同情的)に頼るだろう、(2)そうして、天皇を擁して天下に号令し、「其身政府を遁れ、且、禁闕に潜み、安心故」、水戸・因幡などの説を容れて、幕府に鎖港を厳しく催促し、人心を自分に集めようとする「密策、不臣之謀計」である、というもの。また、この日、春嶽から書簡を受取る。書簡は、先日中川宮から聞いた話として、慶喜及び老中・総裁職が各々二条関白と中川宮に慶喜の「京坂守衛総督」任命を内願したこと、朝議は多分任命と決していること、慶喜の総督就任後に将軍が東帰する様子であることを報じたもの。
  • 3月20日、山階宮を訪ねた宗城は、慶喜の総督就任願いには「深意」があるのではと注意喚起をした。また、宇和島藩邸を訪ねた一蔵に対し、「今一段尽死力周旋」すべきかどうかききたいとの久光への伝言を再度申し付けた。
  • 3月21日、宗城、近衛家を訪ねる予定が延期になったため、薩摩藩邸を訪問し、久光と内談。慶喜の「所業実不可解」と言い合う。また、久光は、19日に内大臣が「大隈にハ一生在京にても可然」などの話があったと語る。宗城、日記に「守護職之御内評かと被考」と記す。
  • 3月22日、宗城は、近衛家で中川宮・久光と落ち合い、中川宮と前関白近衛忠熙に対して、慶喜の「京坂守衛総督願望」(+将軍後見職辞職)に関する疑念を唱え、総督任命の熟考を申し入れる。その内容は、(1)国是尊奉の目処がたって将軍東帰・諸大名帰国となり、総督新設と同時に守護職廃止となれば、兵権のない慶喜は水戸・因幡・備前に頼る可能性があり、三藩が長州上京を周旋するするかもしれない、(2)後見職を辞職すれば、幕府に横浜鎖港を厳しく催促して人心を集め、天皇を擁して、終に天下に号令するようになるかもしれない、というもの。愕然とした中川宮に、「摂海新砲台守衛総督」ならよいだろうと提案。さらに、中川宮・前関白は、何かあったときに慶喜を掣肘できる春嶽の守護職留任を強く希望する旨を述べた。
  • 3月23日朝議紛糾。結局、従来通りのポスト任命と決まり、24日、朝廷は幕府に対し、慶喜の総督・指揮任命の沙汰を下す。(25日、幕府は慶喜に朝命を伝える)。
  • 3月25日、宗城、慶喜を訪ねる。(後見職を遁れるために)自ら内願したのではないか、また兵権はどうするのか質す。慶喜、自ら両職を内願したこと、守護職がいるので兵力は不必要であること、摂海防御が先であったこと、を話す。宗城、真実は分からないと日記に記す。宗城、さらに水野老中を訪ねて、慶喜に関する疑念を述べる。老中、愕然とする。

■その他の動き
【京】慶喜、春嶽への書簡の追伸にて、「摂海砲築総督は如何」と「再慮」を請う。(『続』p58)
【京】有馬遠州、宗城宛書簡に「此度京阪守衛総督ハ一橋胸中より出候事。さらさら閣老之談にハ無之」という旨を記す。宗城・水野老中面談p395、中川宮面談p395-396(『伊』)
【長州】久坂玄瑞を命じ、遊撃隊木島又兵衛ら12名を同行させる。藩命を待たずに随従する者、50余人。(『維』五)

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