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元治1年3月26日(1864年5月1日)
【京】薩摩藩士、宗城に対し、中川宮が慶喜に事前に情報を漏らし、
その結果、慶喜が京都・大阪両地の総督を懇願した伝える
【京】越前藩、中川宮・近衛前関白・野宮伝奏に辞職許容を入説。
中川宮、慶喜への懸念を話し、春嶽の留任を求める。
【京】一橋家臣、越前藩に幕府は守護職解任の方針を決めると伝える。
【京】朝議、中川宮らの主導で、守護職は会・越両藩にとの結論。

☆京都のお天気:晴、八十八夜(久光の日記より)
■慶喜の禁裏守衛総督・摂海防御指揮就任

【京】元治元年3月26日、薩摩藩士高崎左太郎(正風)が伊達宗城を訪ね、22日の近衛邸の集会の内容を中川宮が一部慶喜に漏らし、大坂だけでよいかと打診した結果、慶喜は京都・大坂両地を懇願したのだと伝えました。

高崎のいう22日、近衛邸には中川宮・宗城・久光が集まっていました。席上、宗城は慶喜の「京摂守衛総督」願望に関する疑惑を力説し、中川宮を「愕然焦慮」させていました。どうすればよいのか尋ねた中川宮に対して提案した代替ポストは「摂海新砲台守衛総督」でした(こちら)

実は、3月23日の近衛前関白の書簡(注1)に「さる御方存外之儀有之」という文言があり、宗城は何を意味するのか理解に苦しんでいたのですが、高崎は、これについて次のように説明したそうです。「廿二日御談合にて摂海防御総督云々御座候処、其事、極密、尹宮より橋へ御もらし、大阪計にても宣哉と有之故、(慶喜が)両地懇願候由にて、(中川宮がこういう言動にいたったのは)後日、何等変動を生候時、一橋に今日悦を被入置候はば(=今、慶喜の歓心を買っておけば)、御身為になるゆへと奉存候」。

<ヒロ>
●慶喜が「両地」を懇願した事情
つまり、22日の時点では、前関白・中川宮は、宗城の入説を受けて、慶喜を「摂海防御総督」だけに任命するつもりだったようなののですが、中川宮が事前に慶喜に大坂だけでよいのかと確認したところ、慶喜が「両地」を「懇願」したため、結局、23日の朝議では、禁裏守衛総督・摂海防御指揮に任命することになったというのです。慶喜は、25日に、宗城に対して、「摂海防御指揮計にて、御当地(=京都)之事更ニ関係不被致候様にてハ不相済、疑念説も直に起候様(◎故か)、両方ニ願」と語っていますが、中川宮から情報漏えい(事前打診)があったことを受けて、改めて「両方」を願ったとも受取れます(こちら)。(当初は摂海防御指揮だけを願っていたが、後から禁裏守衛総督を追加で願ったのだという、より長いスパンの話にも受取れますが)

また、23日、慶喜は春嶽のもとに家臣を遣わし、唐突に「海軍総裁職」「摂海砲台築造(総督)」への就任を提案しています(こちら)。このうち、「摂海砲台築造(総督)」は、22日に、慶喜の「京摂守衛総督」任命に反対する宗城が代替ポストとして提案した「摂海新砲台守衛総督」と同一ポストのようなものです。中川宮から情報漏えいがあったとすると、符号があうと思います。もしかすると、慶喜は、このポストを春嶽に充てることによって、自らは希望通りの禁裏守衛総督・摂海防御指揮就任を確実なものにしようとしたのかもですね?もちろん、摂海防御は重要課題ですから、自分に不足する軍事力を越前藩に期待した面もあったと思います。春嶽はどちらの新ポストも拒否しますが、慶喜は25日付春嶽書簡においても、「摂海築保総督は如何。御再応可被成候」とこだわりをみせています。ここからも、摂海防御を重要視していたことは想像できるのではと思います。

(注1)朝議において慶喜の禁裏守衛総督・摂海防御指揮任命に決まったことを知らせる書簡を指すと思われます。『伊達宗城在京日記』には、24日に近衛前関白から「返書」を受取ったと書かれており、その大意が次のように記されています。「一橋総督之一件、昨日朝廷之議論甚以六ヶ敷、山階宮之説も之有、矢張過日来之通、今日可被仰出ニ御治定相成候事。守護職、越・会両藩ニ御治定之事。委細之事ハ尹宮より御聞取と存候」。この書簡ではないでしょうか?

参考:『伊達宗城在京日記』p392-393, 397-398(2010/9/30)
関連■テーマ別元治1「慶喜の後見職辞職/総督・指揮職就任」

■春嶽の守護職辞任、容保の守護職復帰問題

【京】元治元年3月26日、越前藩は、朝廷側に春嶽の守護職辞任を入説するために、中川宮、近衛忠熙(前関白)、野宮定功(伝奏)といった有力者の下に藩士を派遣しました。しかし、朝廷側からは辞職許容の反応を引き出せず、中川宮からは、慶喜への不安を理由に守護職留任を強く求められました。

○中川宮の反応
中根雪江は中川宮を訪ねました。そのときのやりとりはこんな感じです。

中川宮
(中根が事情を説明する前に口を開いて)守護職は大蔵太輔の外、会津へも命じ、両家にて奉職させる事に決したはずだが、幕府からは未だその沙汰がないか?
中根 未だ承っておりません。守護職を両家に命ずべきとの御詮議はどのような御趣意から出たものでしょうか?

中川宮
一橋に「守衛総督」を命じたが、「(徳川宗家の家族である慶喜には固有の)兵力なければ行き届くべくもあらず、然るに越・会の両藩は無二の忠誠故、ニ藩の兵を以て京師を固めなば充分なるべしとの見込」から出たものである。

そのほかに「一橋の人となりは時々転変し」、今回の上京後について申せば、「去冬頃の意見を本心とすべきや、此節の意見を本心とすべきや、了解に苦しまるるなり故に、今後とても如何なる随意の事有るべきか測られず」、そうなったとき、大蔵大輔殿が此地に居られなくては、「これを匡正すべき人なく 宸襟も為めに安んぜられ」ないだろう。

「されば、大蔵大輔殿の職に居らるると居られざるとは 皇国一般のためにも徳川氏の為にも大なる関係ある事なれば、何分にも君臣共熟考の上、更に奮発あらん事を望む」
中根 仰せのように篤く大蔵太輔に申し聞かせますが、この度辞表を出した内情は(云々)

(朝廷は、24日に、幕府に対し、会津・越前の両藩に守護職を申し付けるよう命じていましたが、幕府はその沙汰を未だ伝えていなかったんですね・・・)。

○近衛前関白の反応
近衛家には酒井十之丞・島田近江が使わされました。近衛前関白とのやりとりはこんな感じです。
酒井・
島田
内願の趣を速やかに御許容蒙りたく存じます。
近衛
前関白
先般から、大蔵太輔らが周旋してきた幕府の朝廷尊奉条件及び今後の国是ともに未だ確定に至らない現在、大蔵太輔殿が辞職されるのは「如何にも不本意」のみならず、此節、守護職を越前・会津両家に命ずべきとの朝議もあるので、御許容は難しいだろう。
酒井・
島田
守護職を両家に命じられては、両家の間に「意外の軋轢」が生じないとも限りません。万一そうなっては却って害あるも益なき事でございます。
近衛
前関白
なるほど、両家に同職を命じるのは、朝廷に関白がある上に内覧を命ぜられる時に等しく、却って支障があるかもしれない。尚考えてみるが、近頃、出京の諸侯にも追々御暇を命じられるべきとの評議がある中、薩・越までも帰国となっては「甚心細く」存ぜられる。よって、辞職許容の件は容易く承って置くとは申せない。

○野宮伝奏の反応
中根は中川宮を訪ねる前に野宮を訪ねていました。そのときのやりとりはこんな感じです。
中根 (辞職内願の経緯を陳述し)速やかに解職あるよう御周旋ください。
野宮 守護職解任については、「朝議殊の外六カ敷、摂海警衛総督を命」ずべきだとの議論もあるが、従来守衛の諸侯もあるので、その上さらに総督を置いては不平が出るかもしれないとの懸念もあり、未だ決定しない。現在、越前の外、会津へも守護職を命じるべきだとの議論もある程である。
中根 摂海守衛総督はたとえ命じられても「疲弊の国計なれば到底御請に及びがた」い。「厳重にも当職解免の御周旋」を願います。
野宮 本日、この件の朝議があるはずなので、心得ておこう。

参考:『続再夢紀事』三p58-60

<ヒロ>
春嶽が守護職の辞表を幕府に提出するにあたって、越前藩は一橋慶喜(当時将軍後見職)・松平直克(政事総裁職・川越藩主)に事情を説明をしていますが、朝廷の方にはまだでした。それで、藩士を遣わすことになったのだそうです。

越前藩は、辞職の願書を3月17日には直克に(こちら)、翌18日には慶喜に差し出しました(こちら)が、あくまでも内願書であったので、同月21日、手続きを整えるために公式な願書を出しました。しかし、同じ日、春嶽の辞職とセットになっていた容保の守護職復帰を強く主張してきた関白二条斉敬が、幕府(慶喜・直克)に春嶽の守護職「解免なき方然るへき旨」を伝えてきました(こちら)。この情報は、翌22日、川越藩士によって越前藩にもたらされました(こちら)。23日、越前藩士が二条関白を訪れて辞職許容を求めたところ、関白は、後刻参内の上、充分に評議しようと回答しました。しかし、その後、一向に解任の沙汰が聞こえてこないため、説明不足だと感じ、今度は中川宮・近衛前関白らに藩士を派遣したのだと思われます。中川宮・近衛前関白は、禁裏守衛総督に就任した慶喜への不信感から、彼を掣肘できる存在である(と思われる)春嶽の守護職留任を望んでおり、22日にこのことを宗城・久光に話していましたが(こちら)、越前藩にはまだ伝わっていませんでした。(このあたり、春嶽と宗城・久光の間に距離を感じます・・・。中川宮らは、宗城らが春嶽に根回しすることを期待していたのではと思ったりもするのですが)

この日の中川宮の説明によると、朝廷が両藩に守護職を命じたのは次の2つの理由からでした。
(1) 慶喜の軍事力不足に対する不安:慶喜に禁裏守衛総督を命じたものの、(徳川宗家の家族である一橋家当主の慶喜には固有の)兵力がない。「無二の忠誠」を有する両藩の兵力で京都を警衛させることによって、その弱点をカバーさせたい。
(2) 慶喜自身に対する不安:「人となりは時々転変」するので、今後どのような「随意の事」があるかわからない。そうなったときに慶喜を正すことできるのは春嶽だけであり、春嶽が在京していれば天皇も安心である

1つ目については、この日の説明では、単純な兵力不足のカバーになっていますが、その背景には、慶喜が不足する兵力を実の兄弟が藩主を務める水戸・因幡・備前(熱心な鎖港攘夷で長州シンパ)に頼るのではないかという疑惑があると思います。2つ目は、両藩に守護職を命じる理由ではなく、春嶽に留任を求める理由です。慶喜自身に対する不安は、中川宮・近衛前関白が、22日に近衛邸の集会で宗城・久光に相談した内容とほぼ同じです(こちら)

中川宮の発言からは、春嶽の留任が、慶喜の禁裏守衛総督・摂海防御指揮任命とセットになっていることがわかると思います。なお、宗城は、同日付の久光宛書簡においては、春嶽の留任について「大蔵も卒而には難出候と察候・・・・乍然、両人同心強力勤務候はば、一橋にも不工合に可有御座と存候」(『玉里島津家史料』三p251)と書いており、ここからも、そのことがうかがえると思います。

禁裏守衛総督と京都守護職の指揮系統は、依然曖昧です(禁裏守衛総督がそもそもどういう職掌なのか規定がありませんし)。

越前藩も慶喜に不信感を抱いていますから、中川宮の見方にはなるほど・・・というところもあったと思うのですが、それより、今更言われても・・・という感じが強かったのではないでしょうか(朝廷での不評や、一度解任の沙汰が出たことをきいているだけに・・・)。

ところで、近衛前関白から両藩に守護職を命ずる件を聞かされた越前藩士は「意外の軋轢」が生じる可能性を指摘しています。実はそういう懸念が朝廷にはあったのですが、22日の近衛邸の集会において、宗城が「越会なら其患は有之まじくと存候」と請合っていました。近衛前関白にとっては、えー・・・っていう感じだったと思います。(2010/9/29)

***

【京】同日、一橋家臣平岡円四郎が越前藩邸を訪ね、応対した中根雪江に対し、幕府では春嶽の内願通り守護職解任の方針を決めたこと、既に二条関白にも伝えたので不日解任の沙汰があるだろうこと、を「御安心の為」知らせました。

平岡によれば、慶喜は春嶽の辞職について「いかにも御気之毒の事にて人情忍びざれがたし」という思いだったが、幕府内では総裁職松平直克(川越藩主)らが、速やかに解任した方が却って春嶽には都合がよいというので、解任と方針を決めたそうです。

平岡は、さらに春嶽に対面し、上記の旨を伝えたうえで、退職後も登城するかどうか尋ねました。春嶽は、御用があれば命じられ次第「御相談をも申上べし」と答えたそうです。

参考:『続再夢紀事』三p62-63(2010/9/29)

慶喜サイドは、春嶽の守護職辞任(解任)楽観視していたのですが、朝議はそういうわけにはいきませんでした・・・↓

***

【京】同日、朝議で春嶽の辞任が評議されましたが、中川宮・山階宮・近衛前関白が承知せず、守護職を容保・春嶽の両名に命じるべきだとの結論になりました。

<ヒロ>
越前藩の中川宮・近衛前関白らへの入説は功を奏さなかったようです。ちなみに、春嶽の辞任を承知しなかったもう1人の山階宮へは、3月20日に宗城が慶喜の京摂総督内願の「深意」について注意喚起をしており(こちら)、やはり慶喜への不安から春嶽の辞任を許容しなかったのではと思います。(宗城は慶喜の禁裏守衛総督・摂海防御指揮任命を阻止したかったのですが・・・)

ところで、これは、翌27日に越前藩邸を訪ねた平岡円四郎・慶喜の情報です。(詳細は27日の「今日」にて)。慶喜は、この日、禁裏守衛総督任命のお礼のために参内しており、朝議にも参加してました。慶喜への不安から春嶽の留任を強く望む中川宮らですが、まさか慶喜本人を前にして慶喜への疑惑を言い立てることはないと思うので・・・いったいどんな風に議論を進めたのでしょう??

参考:『続再夢紀事』三p63-68(2010/9/29)

<おさらい>
1/9 ・参豫諸侯の集会にて、容保を征長軍副将に、春嶽を京都守護職にとの話が出る。
2/11 ・幕府、容保の守護職を更迭し、陸軍総裁職と征長軍副将に任命
2/15 ・幕府、春嶽を守護職に任命。春嶽、参豫諸侯の幕政参加による「政体一新」を主張
2/16 ・参豫諸侯の御用部屋入り。慶喜、これを春嶽が「守護職の威に乗」じて「決断」したものだとし、「徳川家の紀律今日より相崩れ申候」と嘆く
・容保、軍事総裁職(陸軍総裁職から改称)を請ける。
・孝明天皇、容保に、「事済後」の守護職復帰を望む宸翰を送る。
2/23 ・中川宮、伊達宗城に「春岳守護職も不宣」と話す。
2/24 ・二条関白、慶喜に容保を更に守護職に任ずるよう沙汰を下す
3/9 ・二条関白、慶喜に対し、「叡慮」にも関らず容保の守護職復帰が遅れている理由を質す。慶喜、容保の病を理由に挙げる。
3/11 ・春嶽、8日の藩議に基づき、慶喜に幕政一新を説く。慶喜、「冷淡」な対応。
3/13 ・越前藩、 幕政一新が一向に実現しないので、春嶽の守護職辞任・帰国を内決する。幕府に対し、藩兵到着まで従来通りの会津藩による京都警衛を要請。
・一橋家用人、会津藩藩士に容保の守護職復帰を打診。会津藩、容保の病を理由に守護職復帰辞退を周旋することを決める。
3/15 ・越前藩、慶喜・中川宮に守護職辞退の意を伝える。中川宮、当惑。薩越退京後の政情(水・因・備の勢力拡大)を危惧。
・川越藩(総裁職松平直克が当主)、春嶽に対する朝幕の不評判を越前藩に伝え、守護職辞任を忠告
3/17 ・春嶽、総裁職に守護職辞任の内願書を提出。川越藩士、越前藩士に幕閣・慶喜の越前藩への猜疑について語る。
3/18 ・春嶽、慶喜に守護職辞任の内願書を提出
・二条関白、会津藩に春嶽の守護職辞退を伝え、容保の守護職復帰受諾を強く促。会津藩、容保の快気までは何ともいえないと返答することに決める。
・春嶽、慶喜が禁裏守衛総督に就任すれば「守護職無之候而も宣敷」と宗城に書く。
3/19 ・所司代、会津の警衛箇所の越藩への引渡し見合わせを通達
3/21 ・春嶽、守護職辞表を幕府に提出
・二条関白、慶喜&総裁職に対し、容保の守護職辞表を許容せぬよう幕府に伝える。
3/22 ・川越藩、越前藩に二条関白が幕府に春嶽の守護職解免を許可せぬよう求めてきたと報知。会津の入説の結果だと思われるので、春嶽側も朝廷に入説すべきだと勧める。
・中川宮・近衛前関白、慶喜への不信感から春嶽の守護職留任を希望すること、越前・会津の両藩に守護職を命ずる話がでていることを宗城・久光に伝える宗城、両藩が守護職を務めるのは「可然」と勧める。
3/23 ・一橋家用人、二条関白に容保の快気までの春嶽留任を入説。
・越前藩士、二条関白に春嶽の辞職許容を入説。関白、「板挟み」だと当惑。
・一橋家用人、春嶽に容保の快復までの辞職猶予を求める。また、「摂海築造」担当ポストを提案する。春嶽、不興を示す。
・朝議、会津藩・越前藩両藩に守護職を命じることに決まる

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