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文久2年4月22日(1862.5.18)
<寺田屋事件前日>
島津久光、激派説得に藩士を大坂に派遣。
真木和泉、決起への参加を決める
浦靱負、長州藩士に暴発せぬよう訓示。

■久光の率兵上京と寺田屋事件

○急進派の動き
【坂】文久2年4月22日、真木和泉・淵上健三(淵上郁太郎弟)・吉武助左衛門らが大坂の薩摩藩邸に入り、23日の決起が決まりました。

真木和泉は鹿児島に抑留されていましたが、3月30日に放免され、4月21日に大坂に到着したばかりでした。真木は、最初、意味のない挙兵には反対でしたが、青蓮院宮(中川宮)の意思を受けての決起だと聞き、参加を決めました(青蓮院宮の意思というのは、清河八郎が決起を促すために使った方便です)。 真木の参加を得て、決起は23日と決まりました。さらに、薩摩藩の同志は関白九条尚忠襲撃、長州藩は所司代酒井忠義襲撃との分担も定まりました。

○久光の動き
【京】文久2年4月22日、浪士鎮撫の勅命を受けて滞京中の薩摩藩国父島津久光は、決起を計画する在坂尊攘激派藩士の説得に、再び奈良原喜左衛門と有村俊斎(海江田信義)を派遣しました。二人は同日夜、京都を出発し、23日朝に大坂に着きましたが、すでに有馬新七らは出発した後で、責任を感じた什長の永田佐一郎は切腹していました。
○長州藩の動き
【京】文久2年4月22日、去る19日に上京した長州藩家老浦靱負は長州藩士に暴発しないよう訓示しました。

その概容は
<洛中異変の折、禁裏守衛のために出張を命ぜられたことなので、謹慎を第一とし、粗暴の挙動なく、指揮官の指示に随うよう。他藩兵と交わらず、争論も避けるように。勤王の素懐を達することを務め、血気にはやって軽挙妄動しないように>(『徳川慶喜公伝』より。口語訳byヒロ)

この頃、京都の長州藩邸には、久坂玄瑞・福原乙之進・寺島忠三郎・入江九一・前原一誠(佐世八十郎)などの尊攘激派が集まり、大坂の岡藩小河弥右衛門らと決起を画策していました。長州藩京都屋敷留守居役の宍戸九郎兵衛も激派を支持していたそうです。『徳川慶喜公伝』では、在京の長州藩重臣は長井雅楽の航海遠略策排斥に熱を傾けており、激派の行動にも同情的であったとしています。

関連:■テーマ別「久光上京と寺田屋事件」■「開国開城」「文2:薩摩の国政進出-島津久光の率兵上洛と寺田屋事件」■薩摩藩日誌文久2年

参考:『維新史』・『徳川慶喜公伝』・『大久保利通日記』・『大久保利通』・『島津久光と明治維新』(2003.5.16)

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