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元治1年4月26日(1864年5月31日)
【京】佐久間象山、中根雪絵に時勢を語る
【江】幕府、京都見廻役新設を通達。 

☆京都のお天気:曇天。八ツ時より雨降。夜雨降(『幕末維新京都町人日記』)

■佐久間象山
【京】元治元年4月26日、海陸御備向掛手付御雇の佐久間象山は訪ねてきた越前藩士中根雪江に、先日山階宮に入説した開国説等、時勢について語りました。


二人のやりとりはこんな感じ↓
佐久間 「今日ハ治乱将に分れんとする界」なのに、「上下共、自ら欺き、輙もすれは其遂け得へからさる事を知りツツ軽々しく決行する類」が少なくない。これでは「天下の過乱踵を廻らさすして至る」だろう。自分は孟軻氏(=孟子)が「一正君国是」(=「一正君而国定矣」。離婁章句上20の一部)というように、「先君の非を正すを以て自ら任」じ、既に常陸宮(=山階宮(常陸太守亮親王))にその説を進めたが、中川宮が蓮宮(=青蓮院宮)であられた頃、気づいたことは申し出よと仰せられたので、追々言上に及ぶつもりである。
中根 山階宮に進められた説とはどのような説だろうか。
佐久間 外国に関する説である。方今、朝廷では「専ら鎖攘を望まるれとも、鎖攘ハ元来正理に適ハすしかのみならす、彼我今日の形勢に於けるも決して行はるへきにあらす故」、徹頭徹尾この事を説明することを自ら任じ、その説を進めた。
中根 誠に御同意である。実はその説の主張を拝聴するために今日訪問したのである。
佐久間 最近、一橋殿にも拝謁して、正月二十七日御下付の勅書の趣を公布されたのは、「以の外御失策なる事」を論じた。なぜならば、勅書の趣を遵奉しようとするには、勢い、「長の暴臣」を罰せねばならないが、これを罰しようにも、「別に至難の事情」があるので「断然決行し難」いだろう。さて、その罪を罰すべきだと公布しながら、是を罰しなければ、「朝廷にも幕府にも其威厳を損」われること計り知れず、ゆえに、「御失策」だと申すのである。

最近、幕府より摂海砲台築造の内命があったが、これは即座に御断り申し上げた。なぜならば、元来、この事業はわずかにニ、三部の築造書を読んだくらいの浅学ではその任に堪えられようもないからである。西洋でも、近年、「アームストルカノン(アームストロング砲)」の発明があった上は、その築造法を「一変せさるへからす故に」、この任は馴れた外国人を雇って築造されるべきだと思うからである。

京都の警備は「諸候より課金を徴し」て、その金で「三千五百の選兵」を置けば事は足りるだろう。最近、この策を建言したが、それは、諸候に「無益の労役に就か」せるのは「不得策」だからである。
(管理人は素人なので絶対に資料として使わないでね。適宜、原文にあたってください)

<ヒロ>
おー、やっぱり、象山って合理的!歯に衣きせぬところもいいですねー。

中根は、24日に山階宮に会った際に、<外国の事情は此程佐久間修理よりも詳しくきいた>といわれたので(こちら)、気になって訪ねたようです。フットワークが軽いですネ。感銘受けたみたいで、翌27日には上京したばかりの村田巳三郎(氏寿)を連れて再度会いにいっています。

参考:『続再夢紀事』ニp125-127(2010/12/11)

■京都警衛
【江】同日、幕府は、京都見廻役を新設し、浅尾藩主蒔田広孝(相模守)と旗本(交代寄合)松平康正(因幡守、後出雲守)を任命しました

見廻役の席次は大番頭次席です。各自、200名(定員)の配下をもち、全員が幕臣です。

参考:『維新史料綱要』五(2010/12/11)

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