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元治1年4月25日(1864年5月30日)
【京】前関白近衛忠煕及内大臣近衛忠房、国事用掛を辞退
【京】朝廷内の三港閉鎖論について、一橋家臣黒川嘉兵衛、中川宮を訪ね、
庶政委任による幕府の職権断行か軍職返上のいずれしかないと迫る

☆京都のお天気:晴天(『幕末維新京都町人日記』)

■横浜鎖港問題(三港閉鎖vs将軍東帰問題)
【京】元治元年4月25日夜、一橋家臣黒川嘉兵衛が中川宮を訪ねて、朝廷内に三港閉鎖を唱えるものがいる状態について、庶政委任により幕府が職権を断行する(=横浜一港鎖港)か、(三港閉鎖を朝廷が主張するなら)軍職返上かどちらかしかないと迫りました。

4月29日に中川宮が越前藩士中根雪江に語ったところによれば、この頃、朝廷内には、長崎・箱館も閉鎖すべきであり、将軍が三港閉鎖を奉承せねば東帰を許さぬようにとの「暴説」を発議するものがいたそうです。中川宮によれば、これは、「過日、万事幕府へ御委任仰出されし故(=4月20日の勅書を指す。こちら)、長州の説に雷同して攘夷を望む輩、最早施すへき策なきより発」されたもので、「素より取るに足ら」ない事であるが、このため「殊の外むつかしく」なって「一橋も大に当惑し」、この夜、黒川が中川宮邸に駆けて来て、「此上は御委任の廉を以て幕府ハ進んて職権を断行するか、又ハ退いて軍職を辞するか、二ツ一ッの処置に及ふより外に手段なし」と言い立て、「一時ハ大に切迫の事とな」ったそうです。

<ヒロ>
4月17日には、一橋家臣平岡円四郎が、中根雪江に対し、鎖港交渉が不首尾に終わった場合、朝廷がなお攘夷を迫るのであれば軍職を返上すべきだと語っていました(こちら)。

長州の説に雷同して攘夷を望む輩とは、議奏を指すのではないかと思います。なお、水戸藩は、江戸から使わされた野村彜之介(4月11日江戸出立)が既に着京しており、藩情から横浜鎖港断行をトップ・プライオリティにしていますので、朝廷の三港閉鎖論には関っていないと思われます。

参考:『続再夢紀事』三p129(2010/12/11)
■テーマ別元治1 「横浜鎖港問題(元治1)」 

■庶政委任
【京】元治元年4月25日、前関白近衛忠熙及び内大臣近衛忠房が国事御用掛を辞退しました。

中川宮は、同月21日に国事扶助を辞退してていました(こちら)。なお、27日、忠熙の辞退は許されましたが、中川宮・忠房の辞退は許されませんでした。

(日付はいずれも『維新史料綱要』より。)

(2010/12/11)

【江】英国特派全権公使オールコック・仏国全権公使ロッシュ・米国弁理公使プリュイン・蘭国総領事ファン・ポルスブルック、協議して、下関通航及横浜鎖港に関する覚書を作成し、幕府に同文通牒を発す。(『綱要』)

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