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元治1年4月27日(1864年6月1日)
【京】横浜鎖港:朝議で三港閉鎖の討論。横浜一港閉鎖に決定。
水戸藩家老岡部忠蔵、横浜鎖港断行入説のために着京。

☆京都のお天気:雨降(『幕末維新京都町人日記』より)

■横浜鎖港問題(三港閉鎖vs将軍東帰問題)
【京】元治元年4月27日、三港閉鎖論で一時動揺していた朝議は、庶政委任に基づき幕府に一任するのでなければ将軍職・総督職を返上を辞さないという禁裏守衛総督一橋慶喜の強硬姿勢や水戸藩・川越藩の入説もあり、元の通り横浜一港鎖港に決しました。

これで、将軍東帰も許可される見込みとなりました。なお、横浜鎖港は水戸藩・川越藩が責任をもって引き受けることになりました。


越前藩士中根雪江が、4月29日及び5月1日に中川宮と一橋家用人平岡円四郎から聞いた話(『続再夢紀事』)をだいたい時系列順にまとめると、こんな感じになります。(番号は任意)
(1) この頃、朝廷内には、長崎・箱館も閉鎖すべきであり、将軍が三港閉鎖を奉承せねば東帰を許さぬようにとの「暴説」を発議するものがいた(注1)。これは、「過日、万事幕府へ御委任仰出されし故(注2、長州の説に雷同して攘夷を望む輩、最早施すへき策なきより発」されたもので(注3)、「素より取るに足ら」ない事だったが、このため「殊の外むつかしく」なった。(4月29日に中川宮が中根に語った話より)
(2) 「一橋も大に当惑し」、25日夜、家臣黒川嘉兵衛が中川宮邸に駆けて来て、「此上は御委任の廉を以て幕府ハ進んて職権を断行するか、又ハ退いて軍職を辞するか、二ツ一ッの処置に及ふより外に手段なし」と言い立て、「一時ハ大に切迫の事とな」った。(4月29日に中川宮が中根に語った話より)
(3) 「一時容易ならさる難儀」になったが、慶喜も参内して、「今更さる事を仰出されてハ御委任仰出されし詮なけれハ、大樹公(=将軍)ハ辞職の外あるへからす。随て拙官も辞退の上、江戸に隠居すへし。さて斯く大樹はしめ辞職する事となれハ、最早横浜ハ応接すへき地にあらさる故、外人ハ摂海に来るへし。外人摂海に来らは、諸卿、直に応接に及はれ、さて其説ハ打攘らひなり、三港閉鎖なり、御見込の如く御計らひあるへし」と言い放った。そのため、朝議も少し摧けたが、尚(横浜一港鎖港に)決定には至らなかった。(5月1日に平岡円四郎が中根に語った話より)
(4) そこへ、水戸藩・川越藩より(注4)、「横浜の一港すら未た閉鎖の功を全くする事態ハさる今日、更に長崎・函館の二港まても閉鎖すへしとハ、所謂、言ふへくして行うへからさるの説なり。されハ此際両藩に於て引受、先、横浜閉鎖の功を成就すへけれハ、他のニ港ハ御見合ハせある様に」と申し出があり、朝議がようやく折り合った。(4月29日に中川宮が中根に語った話より)
(5) 27日の朝議は、「伝議両役」(注5)は不参で、朝議に参加したのは「両宮・三公」(注6)だった。二条関白は「今日となりて更に三港を閉鎖すへしとの議を幕府に下し、夫か為、大樹以下辞職せらるゝ事ともなりなは、拙官ハ首を差出し、暴論の輩をして討取らしむ外あるへからす。さてハ天下の大乱ともなるへし」と言った。中川宮も「今更反覆の議を下されては天下の事実に為すへからさるに至るへし」と言った。このとき、山階宮から九条・有栖川宮の両人に委任してはどうかと提案があったが、彼らは経験も浅く、今日の事情に疎いため、万一不測の変があったときにどう対応するか危ぶまれるので、結局、関白の見込み通り、横浜一港の鎖港になった。(5月1日に中川宮が中根に語った話より)
(6) 27日、28日の両日は、自分たちからもいろいろ言上し、終に最前のように、横浜一港鎖港に決まった。27日は将軍参内の予定だったが、この朝議があったので延期になったほどである。(5月1日に平岡円四郎が中根に語った話より)
(7) 「今度の事」は、未だ天皇の耳にはいれておらず、国事掛で評議しただけである(5月1日に中川宮が中根に語った話より)
(↑管理人は素人なので、絶対に資料として利用しないでね。必ず原文にあたってください)

注1 議奏だと思います。『徳川慶喜公伝』によれば、この頃、議奏が言上して「三港一時ならでは詮無き事なれども、先づ横浜を鎖港の始めとし、遠からず三藩に及ぶべきは勿論なるに、横浜を鎖して他港は暫く閣かるゝやうにては失体なれば、重ねて大樹に仰出さるべし」(忠能卿手録)と主張していたそうです。また
注2 元治1年4月20日の勅書を指します(こちら)
注3 『続再夢紀事』には、5月1日に中川宮が、三港閉鎖の議論は「堂上から発せしものなるか、畢竟過日幕府に御委任仰出されし事を遺憾に思ひ、なんとか一の異議を発して幕府を因しめんとの工慮なるへし」と話したと記されています。
注4 水戸藩・川越藩がなぜこのようなことを申し出たのかは、4月29日の「今日」にて。(横浜鎖港断行が急務な水戸藩は想像つくと思いますけど・・・)
注5 議奏・武家伝奏のこと。当時の議奏は、正親町実徳(大納言)、正親町三条実愛(前大納言)、柳原光愛(中納言)、阿野公誠(参議)。武家伝奏は坊城俊克(大納言)、野宮定功(中納言)、飛鳥井雅典(中納言)。
注6 両宮は、中川宮・山階宮。三公は、関白二条斉敬(左大臣)、徳川公純(右大臣)、近衛忠房(内大臣)だと思いますが、近衛忠房のところは父近衛忠熙(前関白)かも・・・。

<ヒロ>
庶政委任の勅書がでても、ちょっとのことで朝議が動揺し、結局、幕府が朝議の結論をまつ必要があったのでは、なんのための庶政委任かよくわかりませんよね。中根も、中川宮から庶政委任に不満をもつ堂上が幕府を困らせるために三港閉鎖論を発したのだろうと聞いて(上の注3参照)、思わず「さる浅々しき工慮よりして天下の大事に及ふへき事を発議する輩あるいハ、是も畢竟ハ御当路の御方にていさゝかの事にも容易く御動きなさるへき望あれハなるへし」と言ってます。しかも、将軍の進退がどうのという切迫した事態になっていたのに、この件が天皇の耳に入っていないとは・・・(天皇が知ったら激怒したんじゃないでしょうか)。朝廷に当事者能力なさすぎです・・・。

●軍職返上論
(3)で、慶喜が、庶政委任を反故にするなら将軍職・総督職返上するゾ、朝廷で攘夷をやれるならやってミロ、(どうせできないダロ)、みたいな啖呵をきってるのは、面白いですよね。一橋用人の黒田嘉兵衛も25日夜に中川宮に駆けて来て同じようなことをいってます。でも、これは、単なるブラフではないと思えるんです。なぜなら、三港閉鎖が朝廷で問題になる前、4月17日に、平岡円四郎が似たようなことを中根雪江にいっているからです(こちら)。いってみれば、朝廷が無理を押し付ければ軍職返上というのは、一橋家の「藩論」ならぬ「家論」(←こういう言葉があるのかどうかわかりませんが)?)みたいなものになっていて、要はそれくらいの覚悟をもって臨んでるってことじゃないかと思うのです。

実は、文久2年に、やはり対外政策がらみで似たような議論がありました。同年9−10月、開国上奏か攘夷奉勅かで幕論がゆれているときに、将軍後見職だった一橋慶喜は「既に幕府をなきものと見て、日本全国の為を謀らん」ための開国論を唱えていましたし(こちら)、これを受けて、政事総裁職(当時)松平春嶽も慶喜に対して、朝廷が開国論を受け入れない場合は幕府は政権返上の覚悟を定め、その覚悟をもって人心を鼓舞してはどうかと提案しています(こちら)。また、幕閣には一笑にふされたみたいですが、側用取次(当時)の大久保忠寛(大久保一翁)が春嶽に大政奉還論(開国上奏し、朝廷が攘夷断行を命じたときは大政奉還・諸侯の列に下ること)を唱えています(こちら)。 

文久2年の「今日」をupしてるときにも思いましたが、慶応3年、慶喜は土佐藩の建議を容れて大政奉還をしますが、彼(及びその側近)にとって、政権返上はなじみのあるアイデアだったから、受け入れやすかったんじゃないでしょうか?(その頃、平岡はもういませんが・・・)。

参考:『続再夢紀事』三p129、137-140、『徳川慶喜公伝』3p46−47(2010/12/12)
関連:■テーマ別元治1「横浜鎖港問題」 

■横浜鎖港問題&天狗・諸生の争乱
【京】元治元年4月27日、水戸藩家老岡部忠蔵が、藩主徳川慶篤の二条関白・慶喜宛横浜鎖港(休港)の意見書を携えて着京しました。

<ヒロ>
岡部は17日に江戸を発っていました。同じ日、留守老中が、水戸藩の「策略」に備えさせるために岡部の上京を京都に急報しています(こちら)。なお、岡部に先立つこと、4月5日には藩士長谷川作十郎が、4月11日には奥右筆頭取野村彜之介が京に向けて出立していました。着京日は勉強不足でわかりませんが、岡部同様10日かかったとすると、4月中旬には、在京水戸藩士とともに、鎖港断行に向けて活動を始めていたのではと思います。(それが、上記の水戸藩の三港閉鎖見合わせ論+水戸藩による横浜鎖港引き受けにつながっているのだと思います)

参考:『水戸藩史料』下(2010/12/12)
関連:■テーマ別元治1「横浜鎖港問題(元治1)」水戸藩/天狗・諸生争乱

■その他
【京】海陸御備向掛手付御雇佐久間象山、訪ねてきた越前藩中根雪江・村田巳三郎(氏寿)に開国論入説尽力を約束(『続』三p127-128)

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