6月の幕末京都 幕末日誌元治1 テーマ別日誌 開国-開城 HP内検索 HPトップ
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☆京都のお天気:雨降(『幕末維新京都町人日記』より) ■横浜鎖港問題(三港閉鎖vs将軍東帰問題) 【京】元治元年4月27日、三港閉鎖論で一時動揺していた朝議は、庶政委任に基づき幕府に一任するのでなければ将軍職・総督職を返上を辞さないという禁裏守衛総督一橋慶喜の強硬姿勢や水戸藩・川越藩の入説もあり、元の通り横浜一港鎖港に決しました。 これで、将軍東帰も許可される見込みとなりました。なお、横浜鎖港は水戸藩・川越藩が責任をもって引き受けることになりました。 越前藩士中根雪江が、4月29日及び5月1日に中川宮と一橋家用人平岡円四郎から聞いた話(『続再夢紀事』)をだいたい時系列順にまとめると、こんな感じになります。(番号は任意)
<ヒロ> 庶政委任の勅書がでても、ちょっとのことで朝議が動揺し、結局、幕府が朝議の結論をまつ必要があったのでは、なんのための庶政委任かよくわかりませんよね。中根も、中川宮から庶政委任に不満をもつ堂上が幕府を困らせるために三港閉鎖論を発したのだろうと聞いて(上の注3参照)、思わず「さる浅々しき工慮よりして天下の大事に及ふへき事を発議する輩あるいハ、是も畢竟ハ御当路の御方にていさゝかの事にも容易く御動きなさるへき望あれハなるへし」と言ってます。しかも、将軍の進退がどうのという切迫した事態になっていたのに、この件が天皇の耳に入っていないとは・・・(天皇が知ったら激怒したんじゃないでしょうか)。朝廷に当事者能力なさすぎです・・・。 ●軍職返上論 (3)で、慶喜が、庶政委任を反故にするなら将軍職・総督職返上するゾ、朝廷で攘夷をやれるならやってミロ、(どうせできないダロ)、みたいな啖呵をきってるのは、面白いですよね。一橋用人の黒田嘉兵衛も25日夜に中川宮に駆けて来て同じようなことをいってます。でも、これは、単なるブラフではないと思えるんです。なぜなら、三港閉鎖が朝廷で問題になる前、4月17日に、平岡円四郎が似たようなことを中根雪江にいっているからです(こちら)。いってみれば、朝廷が無理を押し付ければ軍職返上というのは、一橋家の「藩論」ならぬ「家論」(←こういう言葉があるのかどうかわかりませんが)?)みたいなものになっていて、要はそれくらいの覚悟をもって臨んでるってことじゃないかと思うのです。 実は、文久2年に、やはり対外政策がらみで似たような議論がありました。同年9−10月、開国上奏か攘夷奉勅かで幕論がゆれているときに、将軍後見職だった一橋慶喜は「既に幕府をなきものと見て、日本全国の為を謀らん」ための開国論を唱えていましたし(こちら)、これを受けて、政事総裁職(当時)松平春嶽も慶喜に対して、朝廷が開国論を受け入れない場合は幕府は政権返上の覚悟を定め、その覚悟をもって人心を鼓舞してはどうかと提案しています(こちら)。また、幕閣には一笑にふされたみたいですが、側用取次(当時)の大久保忠寛(大久保一翁)が春嶽に大政奉還論(開国上奏し、朝廷が攘夷断行を命じたときは大政奉還・諸侯の列に下ること)を唱えています(こちら)。 文久2年の「今日」をupしてるときにも思いましたが、慶応3年、慶喜は土佐藩の建議を容れて大政奉還をしますが、彼(及びその側近)にとって、政権返上はなじみのあるアイデアだったから、受け入れやすかったんじゃないでしょうか?(その頃、平岡はもういませんが・・・)。 参考:『続再夢紀事』三p129、137-140、『徳川慶喜公伝』3p46−47(2010/12/12) 関連:■テーマ別元治1「横浜鎖港問題」 ■横浜鎖港問題&天狗・諸生の争乱 【京】元治元年4月27日、水戸藩家老岡部忠蔵が、藩主徳川慶篤の二条関白・慶喜宛横浜鎖港(休港)の意見書を携えて着京しました。 <ヒロ> 岡部は17日に江戸を発っていました。同じ日、留守老中が、水戸藩の「策略」に備えさせるために岡部の上京を京都に急報しています(こちら)。なお、岡部に先立つこと、4月5日には藩士長谷川作十郎が、4月11日には奥右筆頭取野村彜之介が京に向けて出立していました。着京日は勉強不足でわかりませんが、岡部同様10日かかったとすると、4月中旬には、在京水戸藩士とともに、鎖港断行に向けて活動を始めていたのではと思います。(それが、上記の水戸藩の三港閉鎖見合わせ論+水戸藩による横浜鎖港引き受けにつながっているのだと思います) 参考:『水戸藩史料』下(2010/12/12) 関連:■テーマ別元治1「横浜鎖港問題(元治1)」「水戸藩/天狗・諸生争乱」 ■その他 【京】海陸御備向掛手付御雇佐久間象山、訪ねてきた越前藩中根雪江・村田巳三郎(氏寿)に開国論入説尽力を約束(『続』三p127-128) |
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