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元治1年5月13日(1864年6月16日)

【京】横浜鎖港:原市之進、江戸藩邸の同志に書を送り、
将軍帰府前の鎖港断行の不首尾、
板倉老中の排斥急務との慶喜の言などを知らせる

☆京都のお天気:

■横浜鎖港問題&天狗・諸生の乱
【京】元治元年5月13日、一橋慶喜側近(&元水戸藩士)原市之進は、江戸の水戸藩邸の同志に将軍帰府前の鎖港周旋が不備に終ったこと、鎖港断行には老中板倉勝静の排斥が急務との慶喜の考え等を報知しました。

何度か紹介している 5月13日付原市之進書簡の概容は以下の通り(適当に箇条書きにしています)
「貴地御切迫之情態」、(慶篤の)御痛心の御様子(こちら)、承った。幕府は「追日因循」だと察する処、君上(=慶篤)のは誠に有難い。
大樹公は7日に出立され、9日には独公(=慶喜)が下坂された。その折、(切迫した事情を告げる)東便が到着したので、すぐさま岩金(=岩間金平)を遣わし、独公に、大樹公の滞坂・鎖港成功の目途がついた上での帰府を言上・尽力した。しかし、これは「第一之難物」であった。
せめて「鎖港之御実意顕れ候御手段」がないものかと(慶喜に)伺った。そうしたところ、<「防州(=老中板倉勝静)退斥之儀第一之急務」である。大久保・佐々木らはその腹心だが「正議めかし」て「人を欺」ているため依頼されている。「畢竟狐狸世界一人として実意之者」がなく、この形勢では「川越(=総裁職松平直克)も倒れ候儀眼前」である。彼を「助け、防之邪炎を挫」くことが「当今之急務」と申すべきである。泉州(=老中水野忠精)は京都に留置き、その他には「碌々大害をな」す人物はない。大樹公は「是非鎖港御成功之御決心」であるので、「水川申合、一致尽力」すれば、たとえ(鎖港の目途がつかぬまま、また鎖港の実意を示さぬまま)江戸にお帰りになっても、(鎖港が)成功せぬとはいえまい。ただ、「正議の名をかり、人を愚弄いた」す者は「無此上大罪」であるから、鎖港の断行は黜陟(ちっちょく=官位の上げ下げ)より始めねば不可能である。「浜田等正議之名ある者」を「引出」す「工夫専一」だが、自分から建議する訳にはいかない>と「殆御差支之旨のみ」伺った。(こちら)
岩間は仕方なく引き取ったが、当地の「諸生」も「頗る切迫」して、どのような変事が起こるやもしれぬので、今朝、「鈴大夫」(在京家老鈴木重義)等らが下坂、岩間も再下坂した。事によっては、老中にも面談し建白する決心だが、貫徹するかどうかは覚束ない。大樹公(=将軍家茂)下坂後も、閣老から文通があったが、当藩建白の件(こちら)には触れていないという。
朝廷も、「御委任(こちら)以来兎角居合い兼、議奏辺夫々議論」がある。
9日には、有栖川両宮様、一条、九条、鷹司の三大納言殿が国事御用掛を命じられた。帥宮(そつのみや=有栖川熾仁親王)の国事掛の件は、公の建白によるものだが、このように「大勢御出来」になったのは「矢張ごたまぜ之取計」で、宮家も摂家も残らず国事掛になってしまった。今後は、参豫日のように、「国事御用談日」を毎月何度か設けるようである。一条殿は「庸人」(=凡人)、鷹司殿は「幼若」、九条殿は「頗る人物」で「父の愧を雪く」と言っており「大噴発」らしい。帥宮は「勿論御憤発」で、10日には殿下(=二条関白)と議論されたが、「自然、鎮と激との差別之有之形にて、一より十迄御同論」というわけにはいかず、参内はされたものの「格別之事」もなかった。(こちら)
中川・山階宮は、既に半月近く御参内がない。「畢竟幕府へ御委任相成候上は国事掛も不用」であると解任を願い出られているのに、新規の国事掛が任命されたので、この件が命じられる前は「宮中余程御差縺」れたとのことである。
昨夕、帥宮より「大体之著眼」は内奏したが、「丸き穴へ四角之棒おし込候様之工合、叡慮中へ泌入之工合」はどうか。未だに「中川毒余程侵淫」しており、伝奏野宮は「以之外不宣」、(中川宮が)参内せずとも、野宮が受継いで種々周旋するので、「殿下」(=二条関白)も御承知ない件を「不意」に発している様子だと伺った。(こちら)
(↑管理人は素人なので、資料として使わないでね。)

参考:『水戸藩史料』下p609-613 (2012/4/7)
関連:■テーマ別元治1「水戸藩/天狗・諸生争乱」 「横浜鎖港問題(元治1)」 
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管理人より:
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