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元治1年5月9日(1864.6.12)
【坂】禁裏守衛総督一橋慶喜、摂海巡視のため下坂。
【坂】水戸藩、慶喜に将軍帰府前の攘夷断行を入説。慶喜、水戸藩士に老中板倉勝静の排斥が急務と述べる
【京】朝廷、有栖川宮父子、九条道孝、鷹司輔政に国事御用掛を命じる

☆京都のお天気:(『幕末維新京都町人日記』より)
■将軍東帰
【京】元治1年5月9日、禁裏守衛総督・摂海防御指揮の一橋慶喜が、摂海巡察のため、下坂しました。


●おさらい
朝廷は、4月20日、幕府に対し庶政委任の勅書及び重要事項四条の勅書を与えました(こちら)。将軍家茂は、29日、請書を提出すると(こちら)、鎖港攘夷成功の勅諭とともに東帰の許可を得ました。2日、将軍は暇乞に参内しましたが、その折、朝廷は慶喜に鎖港決行・滞京、政事総裁職松平直克に帰府・水戸藩主徳川慶篤(在府)と協力しての横浜鎖港尽力、老中稲葉正邦・水野忠精に滞京・守衛を命じました(こちら)。将軍は5月7日に退京しましたが、暫時大坂に留まり、摂海防御を巡察した後、海路江戸に向かう予定でした。

■横浜鎖港問題
【坂】同日、江戸から切迫した情勢を告げる書簡を受け取った水戸藩は、藩士岩間金平を慶喜に遣わし、将軍の滞坂・鎖港成功の目途がついた上での帰府を入説させました。慶喜は即決できず、鎖港実行には、老中板倉勝静の排斥が急務だと告げました

『水戸藩史料』によれば、この頃、江戸では、天狗党の争乱の激化につれて、「幕府の水戸に対する感情は頗る険悪にして禍機殆ど一夕に迫れり」という状況でした。そこで、藩議として「迅速に鎖港を実行して内乱の機を外に転ぜんことを努め」、5月4日、幕府に鎖港断行の上書を提出する(こちら)と同時に、京都に急報して切迫した情勢を知らせ、勅命による鎖港の速断の周旋を求めました。この日、江戸からの報せを受けた在京家老は、ただちに藩士岩間金平を下坂した慶喜のもとに遣わし、事情を告げて、将軍の東帰に先立つ鎖港断行(=滞坂。鎖港成功の目途がついた上での帰府)を請わせました。しかし、「公武の事情は未だ意の如くならざるものあり、慶喜の地位を以て」も「未だ之を速決」できませんでした。水戸藩邸は野村彝之介(のむら・つねのすけ)を東帰させ、在京家老鈴木重義、山口徳之進(正定)等を下坂させて、鎖港の速断を幕府に請わせました。

慶喜の側近(&元水戸藩士)原市之進の5月12日付書簡によると、このあたりの事情は以下の通り。
大樹公は7日に出立され、9日には独公(=慶喜)が下坂された。その折、東便が到着し、(江戸の切迫した)様子も分かったので、すぐさま岩金(=岩間金平)が下坂し、独公に、大樹公の滞坂・鎖港成功の目途がついた上での帰府を言上・尽力した。しかし、これは「第一之難物」であり、公も手をこまねかれた。
せめて「鎖港之御実意顕れ候御手段」がないものかと(慶喜に)伺った。そうしたところ、<「防州(=老中板倉勝静)退斥之儀第一之急務」である。大久保・佐々木らはその腹心だが「正議めかし」て「人を欺」ているため依頼されている。「畢竟狐狸世界一人として実意之者」がなく、この形勢では「川越(=総裁職松平直克)も倒れ候儀眼前」である。彼を「助け、防之邪炎を挫」くことが「当今之急務」と申すべきである。泉州(=老中水野忠精)は京都に留置き、その他には「碌々大害をな」す人物はない。大樹公は「是非鎖港御成功之御決心」であるので、「水川申合、一致尽力」すれば、たとえ(鎖港の目途がつかぬまま、また鎖港の実意を示さぬまま)江戸にお帰りになっても、(鎖港が)成功せぬとはいえまい。ただ、「正議の名をかり、人を愚弄いた」す者は「無此上大罪」であるから、鎖港の断行は黜陟(ちっちょく=官位の上げ下げ)より始めねば不可能である。「浜田等正議之名ある者」を「引出」す「工夫専一」だが、自分から建議する訳にはいかない>とのお言葉だった。
(↑素人の管理人の要約なので資料として使わないでね)

<ヒロ>
老中板倉勝静と水戸藩の対立
水戸藩は、3月末の天狗党の筑波挙兵(こちら)という事態を受けて、藩議として「迅速に鎖港を実行して内乱の機を外に転ぜんことを努め」ており、朝幕への鎖港断行の周旋のため、4月11日には藩士野村彜之介(こちら)、19日には、家老岡部忠蔵を上京させました(こちら)。一方、水戸藩の動きを察知した板倉勝静ら留守老中たちは、10日(こちら)、12日(こちら)、17日(こちら)と相次いで京都に急報し、水戸藩に備えさせました。(根強い水戸アレルギーもあったと思います)。京都に到着した岡部は、28日、慶喜から板倉らの密書を見せられ、「奸書甚以可悪不届千万」と憤っていました(こちら)

この日の慶喜の発言は、水戸藩の板倉ら老中への悪感情/警戒心へのダメ押しみたいなものですが、慶喜が本気で板倉を除くべきだと考えていたのか、それともホンネは鎖国無理だと思っている慶喜が、鎖港断行の障害として、板倉を言い訳に使っているのか、そのへんは、勉強不足で想像できません・・・。

それにしても、慶喜、水戸藩向けには完全に鎖港攘夷派になりきってますね^^;。確かに、2月には自らの主導で横浜鎖港を請けているし(こちら)、4月20日には念押しの勅書(別紙)も出ているし(こちら)、その上、慶喜が激論して反対した朝廷の三港閉鎖論は、4月27日、水戸藩が川越藩とともに横浜鎖港を引き受けることで横浜一港鎖港で収まったし(こちら)・・・。翌28日、ダメ押しのように現れた実兄・水戸藩主徳川慶篤の使者、家老岡部忠蔵の鎖港断行の入説にも「至極もっとも」と返答(こちら)。さらには、29日、将軍が参内して件の勅書に奉答。将軍東帰の許可はもらえたものの、鎖港攘夷と水戸藩主への諸事相談の勅命が下る・・・。5月2日には、慶喜に対し、鎖港決行(&滞京)の朝命が下っているわけで(こちら)、今さら否やもないわけですが・・・。

参考:『水戸藩史料』下p608-610(2012.4.6)

【京】元治1年5月9日、朝廷、有栖川宮父子、九条道孝、鷹司輔政に国事御用掛を命じました。

原市之進の5月12日付書簡によると、このあたりの事情は以下の通り。
9日には、有栖川両宮様(=幟仁・熾仁)、一条、九条、鷹司の三大納言殿が国事御用掛を命じられた。帥宮(そつのみや=有栖川宮熾仁)の国事掛の件は、公(=慶喜)の建白によるものだが、このように「大勢御出来」になったのは「矢張ごたまぜ之取計」で、宮家も摂家も残らず国事掛になってしまった。今後は、参豫日のように、国事御用談日を毎月何度か設けるようである。一条殿は庸人(=凡人)、鷹司殿は幼若(注:当時16歳)、九条殿は「頗る人物」で「父の愧を雪く」と言っており「大噴発」らしい。帥宮は「勿論御憤発」で、10日には殿下(=二条関白)と議論されたが、「自然、鎮と激との差別之有之形にて、一より十迄御同論」というわけにはいかず、参内はされたものの「格別之事」もなかった。
中川・山階宮は、既に半月近く御参内がない。「幕府へ御委任相成候上は国事掛も不用」であると解任を願い出られているのに、新規の国事掛が任命されたので、この件が命じられる前は「宮中余程御差縺」れたという。

<ヒロ>
有栖川宮父子(幟仁・熾仁)は水戸藩と姻戚関係にあります。慶喜の生母(水戸9代徳川斉昭の正室)は有栖川宮家出身で、幟仁(たかひと)の叔母、熾仁(たるひと)の大叔母にあたります。また、幟仁の娘(熾仁の妹)は、慶喜の実兄である水戸藩主徳川慶篤の正室です。さらに、熾仁の正室は斉昭の娘でした(既に亡くなっていますが)。慶喜が帥宮を担ぎ出したのは実家・水戸藩の意をくんでのことなのでしょうか・・・。

ところが、有栖川宮父子は長州藩とも姻戚関係にあり(9代藩主毛利斉房の正室は幟仁の叔母、熾仁の大叔母)、親長州でもあります。水戸(激派)と長州はつながっているので、市之進ら在京水戸藩的にはなんの不都合もないのですが・・・。ここのところ、慶喜はどう考えて、帥宮の任命を建議したのでしょう?

こういうところが、慶喜が幕府等から嫌疑を受ける所以なんですねえ。(老中板倉勝静と水戸藩の対立を煽るようなことをいったりもしているし)。

(ちなみに鷹司輔政の祖母は水戸9代藩主徳川斉昭の姉、慶喜の叔母にあたります。こちらも姻戚といえば姻戚・・・)。

参考:『水戸藩史料』下p608-610(2012.4.6)

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