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元治1年5月4日(1864年6月7日)
【京】政事総裁職松平直克退京
【江】横浜鎖港:水戸藩、幕府に横浜鎖港断行を改めて促す
【京】薩摩藩、長州藩士潜伏の風聞を国許に報告

☆京都のお天気:(『幕末維新京都町人日記』より)

■横浜鎖港問題
【京】元治1年5月4日、政事総裁職松平直克が帰府のため、退京しました。

直克は、摂海巡察後、海路江戸に向かう予定の将軍に先立って帰府し、鎖港を進めることになっていました。江戸には10日到着しました。

●おさらい
朝廷は、4月20日、将軍家茂に対し庶政委任の勅書及び重要事項四条の勅書を与えました(こちら)。将軍は、29日、請書を提出し、鎖港攘夷成功の勅諭とともに東帰の許可を得ました(こちら)。5月2日、将軍は暇乞に参内しましたが、その折、朝廷は慶喜に鎖港決行・滞京、政事総裁職松平直克に帰府・水戸藩主徳川慶篤(在府)と協力しての横浜鎖港尽力、老中稲葉正邦・水野忠精に滞京・守衛を命じました(こちら)

【江】元治1年5月4日、水戸藩は幕府に対し、鎖港断行の上書を提出すると同時に、京都に急報し、勅命による鎖港速断の周旋を求めました。

水戸藩は、天狗党の筑波挙兵という事態を受けて、藩議として「迅速に鎖港を実行して内乱の機を外に転ぜんことを努め」ており、朝幕への鎖港断行の周旋のため、4月11日には藩士野村彜之介(こちら)、19日には、家老岡部忠蔵を上京させました(こちら)。しかし、争乱の激化につれて、江戸の情勢も「幕府の水戸に対する感情は頗る険悪にして禍機殆ど旦夕に迫れり」と悪化したため、5月4日、幕府に鎖港断行の上書を提出すると同時に、京都に急報して切迫した情勢を知らせ、勅命による鎖港の速断の周旋を求めました。

上書の要点はこんな感じ
「横浜鎖港之儀」については、「御事業に相顕れ候廉合も無」く、「三港通商」は従来通りの様子なので、「人々」も「目途」が立たず、それが「御国内動揺」に至っている。
元々、「外寇を憤怒」するのは「天下一般之人気」である。「鎖港攘夷之御著眼を以」って、「先指当り休商之儀速かに御英断」になれば、「掃攘之御成功」も遠からぬと、「人心一体居合」うだろう。
近頃、「人心弥(いよいよ)切迫之模様」である。遠隔の地からの御沙汰を待つ間に、彼是と日数も立ち、「機会に後れ」ては、「不容易儀」である。「形勢」も切迫していることから、「不得止事」として、「休商」通達の段取を協議したいと(水戸藩主徳川慶篤は)お考えである。
「鎖港之御手順」として、「兵端を開」くことを懸念していては、鎖港は不首尾に終わると(慶篤は)深く心配されている。是非、御評議にかけていただきたい。
(↑管理人は素人なので資料として使わないでね)

参考:『水戸藩史料』下p607-608(2012.4.6)
関連:■テーマ別元治1 「横浜鎖港問題(元治1)」■開国開城「参豫の幕政参加・横浜鎖港・長州処分問題と参豫会議の崩壊」水戸藩かけあし事件簿

■長州不穏の世評(by 薩摩藩)
【京】元治1年5月4日、薩摩藩樋口矢朗は、京都の情勢につき、@中国商人(中国地方の商人)と称する者が「過分」におり、彼らが長州に京都の様子を逐一報せているようであること、A変装して京都に入る者は、商人の手引きで潜伏しているとの風聞が頻りにある、B「入口々々御固メ所」も、帯刀者以外は改めることがなく、商人に変装しての通行は「差向」である、と報じました

その他、天竜寺・寺内・河原町の長州屋敷(元長州屋敷)の探索結果も報じています。

参考:『忠義公史料』三p314-315(2011.4.3)

【長州東上】長州藩士久坂玄瑞・来島又兵衛・宍戸左馬介、藩要路に書簡を送り、将軍滞京により藩主毛利敬親進発の機会が逸したと告げ、末家及家老の上京を促す。(『綱要』五)

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