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元治1年5月12日(1864年6月5日)

【京】薩摩藩小松帯刀・西郷吉之助(隆盛)、在国の大久保一蔵(利通)に
悪化する京都の情勢を報じる
【京】幕府、諸侯の京都発着は禁裏守衛総督・守護職・所司代・町奉行に稟申するよう命じる

☆京都のお天気:
■横浜鎖港問題&帥宮(有栖川宮熾仁)
【京】元治1年5月12日、国事御用掛に就任した帥宮(有栖川宮熾仁)は、禁裏守衛総督一橋慶喜側近・元水戸藩士原市之進に対し、朝廷には、参内停止中の中川宮の影響力が未だ浸透している状況を語りました。

5月13日付原市之進書簡によれば、この日の夕方、帥宮は次のように語ったそうです。
「大体之著眼」は内奏したが、「丸き穴へ四角之棒おし込候様之工合、叡慮中へ泌入之工合」はどうか。未だに「中川毒余程侵淫」しており、伝奏野宮は「以之外不宣」、(中川宮が)参内せずとも、野宮が受継いで種々周旋するので、「殿下」(=二条関白)も御承知ない件を「不意」に発している様子だ。

<ヒロ>
帥宮(そつのみや)は、5月9日、父の有栖川宮幟仁(たかひと)、鷹司輔政、九条道孝らとともに国事御用掛に任命されました。水戸藩と姻戚関係にある帥宮の任命は、禁裏守衛総督一橋慶喜の建議によるものでした。帥宮は、任命翌日の10日には参内して二条関白と議論するなど、積極的に動きました成果は得られませんでした。関白との議論、孝明天皇に内奏したという「大体之著眼」は、江戸から急報を受けて水戸藩が慶喜に入説した、鎖港成功までの将軍滞坂(=将軍帰府前の鎖港断行)でしょうか・・・?5月10日、朝廷は長州藩に勅使大坂派遣停止を通達しており、長州入京・七卿復職論の議奏正親町三条実愛が辞職を願い出ていますから、帥宮はこの件についても議論したのかもしれません。

関連:■テーマ別元治1 「横浜鎖港問題(元治1)」 「水戸藩/天狗・諸生争乱
参考:『水戸藩史料』下p611(2012/4/7)

■尊攘急進派の伸張(by西郷隆盛)
【京】元治元年5月12日、薩摩藩士西郷吉之助(隆盛)は、在藩の大久保一蔵(利通)に対し、京都の情勢につき、形勢が悪化するばかりで、公家達は「例の驚怖」の病で「暴客」を恐れていること、近衛前関白父子に護衛を差し向けていること、長州・「暴客」が禁裏守衛総督・摂海防御指揮一橋慶喜の野心を疑っていること、「幕奸之隠策」により薩摩に悪評がたっていること、来月にも外国艦隊が長州を攻撃すれば長州・急進派の「暴威」も衰えるだろうこと等、報じました。

要点はこんな感じ。
当地の形勢は「日ニ月ニ衰」えており、堂上は「例之驚怖之御病症」を起こして「暴客」を恐れること「甚」しい。
陽明殿(近衛前関白)父子へは要望により、毎晩藩士を守衛に差し向けている。尹宮(=中川宮)は、「尚更之御恐れ悪評(注1)も甚敷事」である。
会津藩から「是非行末御結合」して置きたいというので、小松らと5〜6名で出張ったが、「有志会ニては全之無、俗会之上通と申塩梅」である。「御笑察」されたい。
土州が、この機に乗じて「大発」するとの「世評」があるが、とても「大挙」できそうな様子ではない。
長州は勿論、「暴客輩」も、最近は一橋(=慶喜)を「頻ニ疑ひ出」して、「異議紛々之様子」らしい。「段々(慶喜の)作略之次第モ相顕」れて、「水人抔ハ篭絡」されている様子だが、(慶喜は)「決テ攘夷之腹ニ無之、別ニ一物有之(注2)候半(そうらわん)、其の趣ニて一向探索ニ打掛」るようだ。
「大樹公」(=将軍)は去る7日、下坂したが、30日くらい大坂城へ滞在するようだ。その後、将軍が江戸に帰着すれば、必ず外国船が長州に向かうと、勝麟太郎(=軍艦奉行並勝海舟)が話していると聞く。長州が破れれば、「決テ浪花江突掛、開港之説ヲ起」すだろうと話しているとのこと。麟太郎は、最近、更に幕吏から「被忌候」らしい。
「閣老水野」へは是非滞京するよう朝廷より要請があったが、水野は「大樹公」に「付添」わねばならぬので、代わりに稲葉が残ることになった。「水野と一橋ハ余程合居候様子」である。
最近、「御屋敷」(=薩摩藩)の「悪評」が「甚」しい。「畢竟幕府より出候事」が多いときく。上海で茶等の交易を始めたなど言触らしているらしい(注3)。これらは全て「幕奸之隠策」と見受けられる。当分は(久光の)「御遺策」の通り、「頓と手ヲ引」き、軍事調練を行い、探索に心を用いる予定つもりである。一方で、「暴輩」も「至極疑ヲ生し、挙動不相分、深く吟味いたす様子」である。長州は「頻ニ合せ度との腹と相見」えるが、「手之付様無之塩梅」である。「暴客」も参るが、最初から「因循」を前面に出して何ごともそのせいでできないとの返答で押し通すので、「議論追掛て参兼」る次第である。来月にもなり、外国船が長州へ攻撃をしかければ、「余り威張居候て、面の悪き者共」であるから、雲(行)を見て「暴威」は衰えるだろうと考える。
(出所:5月12日付大久保一蔵宛大島吉之助書簡より作成)

注1 尹宮が近衛家や薩摩・越前・会津の支援で皇位簒奪を目論んでいるとの噂を指すと思われます。
注2 慶喜が将軍職に野望があるとの噂を指すと思われます。 長州シンパのみならず、前宇和島藩主伊達宗城も慶喜の禁裏守衛総督・摂海防御指揮任命について、「其身政府を遁れ、且、禁闕に潜み、安心故、水始之入説にて厳敷関東へ懸合、終ニ人心之帰し候様、密策、不臣之謀計」(元治1年3月18日付『伊達宗城在京日記』)と懸念し、任命を反対していまた・・・(こちらこちら)
注3 6月11日付木場伝内宛の西郷書簡では、薩摩商人の貿易用の茶葉買い付けを取り締まるよう命じているので、根も葉もないうわさではありません。(それに、薩摩藩は、表で攘夷を唱えつつ、綿花貿易をやっており前年には長崎丸が、この年の2月(1月説あり)には長州の義勇隊に加徳丸が焼き討ちにあい(こちら)、同26日に船主が梟首されています(こちら)

参考:『忠義公史料』三p317-318 (2011/4/4)
関連:■テーマ別元治1年「池田屋事件〜禁門の変

その他の動き
◆5/10【京】長州処分:朝廷、長州藩に勅使大坂派遣停止を通達。議奏正親町三条実愛、辞職を請う/【江】松平直克、帰府。幕府、京都守衛のために別手組200人を上京させる
◆5/11【坂】将軍、軍艦鯉魚門に搭乗して摂海の砲台巡視/中岡慎太郎、土佐の同志に書を送り、奮起を促す/容保、療養のため寺町から黒谷に移る。
◆5/12【京】幕府、諸侯の京都発着は禁裏守衛総督・守護職・所司代・町奉行に稟申するよう命じる【天狗争乱】備前藩主池田茂政、朝廷・幕府に対し、常野屯集の水戸藩士らを攘夷の先鋒とさせることを建議し、慶喜に周旋を依頼する。/在府桑名藩士高野市郎左衛門、会津藩士らとともに在府老中板倉勝静に謁し、常野屯集の浪士と長州藩が結託していると告げ、将軍退京不可を入説。
(維新史料綱要五)
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管理人より:
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