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文久3年5月22日(1863年7月7日)
【京】土佐脱藩那須信吾、姉小路公知暗殺者の刀を
薩摩藩田中新兵衛の差料だと証言する。
【京】岩国藩主吉川監物、学習院に、将軍の東帰を許して
攘夷の実効を上げさせるべきとの上書を提出。

■朔平門外の変
【京】文久3年5月22日夜、薩摩藩邸に潜伏中の土佐脱藩浪士那須信吾が姉小路邸を訪ね、暗殺者の残した刀を薩摩藩の田中新兵衛のものだと証言したそうです

姉小路家は刀を証拠として京都守護職と町奉行に告訴したそうです。

その後、町奉行では薩摩藩に対し、田中の召喚を求めたものの、常に不在だといわれて出頭を得なかったとか。土佐藩激派は田中が姿をくらますのではと心配し、井原応輔が那須と協力して居所を探ったところ、薩摩藩邸近くの東桐院蛸薬師東側小森鉄之助の持ち家に田中がいることを聞き出したそうです。吉村寅太郎が裸体の上にコモをかぶって非人を装い、確かに田中かどうかを突き止めたとか。土方久元は町奉行では田中を取り逃がすのではと懸念し、守護職会津藩を訪ねて捕縛するよう求めたそうです。(会津藩側の通史にはのっていません)

<ヒロ>
那須は、文久2年、大石団蔵、安岡嘉助とともに土佐藩参政吉田東洋を暗殺して脱藩し、一時は長州藩邸に匿われましたが、久坂玄瑞らが海江田信義に依頼して、以後、薩摩藩邸に潜伏していました。姉小路が殺されたときいて駆けつけた土方久元が暗殺犯の遺留品である刀が薩摩風なのをみて、その方面で探ろうとしたそうで、那須に白羽の矢がたったようです。那須が養父に送った書簡にもそのことが記されているそうです。

「刀形薩風と申事に相決候、僕等薩邸に居候故、若乎見覚等可有之迚、極密を以て夜中姉小路様へ参殿仕、彼の刀見合候処、天哉確証有之、夫より紐付初め、僕輩共も段々周旋仕云々」(『維新土佐勤王史』より孫引き。旧字は当用漢字に適宜直しています)

那須が藩邸に潜伏しながら、薩摩藩に不利になるような証言をしたことが、ちょっと不思議な気がします。

なお、『維新土佐勤王史』は、当然ながら土佐(特に武市瑞山や土方久元)びいきで、犯人=薩摩藩説でおしているわけですが、同じ土佐藩出身の田中光顕の『維新風雲回想録』では、長州説、薩摩説をのせていて、「いまとなっては下手人はわからない」とされています。長州説は攘夷論者が急に開国になったのであせった長州が暗殺したというもので、薩摩説は、姉小路が近衛前関白を妨害したため、近衛前関白と縁戚の薩摩が暗殺したというものとなっています。「攘夷論者が急に開国になったのであせった」のなら、土佐藩も充分犯人になりうるのではと思うのですが・・・。

参考:『維新土佐勤王史』・『維新風雲回顧録』(2004.7.8)
関連:■開国開城:「幕府の生麦償金交付と老中格小笠原長行の率兵上京」■テーマ別:「朔平門外の変(姉小路公知暗殺)
■将軍東帰問題
【京】文久3年5月22日、岩国藩主吉川監物は学習院で三条西・東久世・錦小路の三卿に面会し、将軍の東帰を許して攘夷の実効を上げさせるべきだとの上書を提出しました

吉川は前日に三卿に呼び出されて、一橋慶喜の後見職辞表及び将軍の小田原下向に関して意見を尋ねられていました。吉川はその後、河原町の長州藩邸に行き、村田次郎三郎・桂小五郎・佐々木男也・寺島忠三郎らと協議し、その結果を上書にまとめていました。

参考:『修訂防長回天史(三下)』p417(2004.7.13)
関連:■開国開城:「幕府の生麦償金交付と老中格小笠原長行の率兵上京」■幕末日誌文久3 ■テーマ別:「第2次将軍東帰問題と小笠原長行の率兵上京

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