7月の「今日」 幕末日誌文久3 テーマ別文久3 HP内検索 HPトップ
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■将軍東帰問題 【京】文久3年5月21日、前日の京都守護職松平容保らの将軍東帰奏請(こちら)を受けて、朝廷では、将軍東帰許否の朝議が行われました。 関白鷹司輔熙は摂家、中川宮、国事参政・寄人に諮問しました。議論は、滞京を望む二条斉敬(右大臣)・中川宮ら公武合体派と東帰を主張する三条実美ら尊攘急進派とに分かれました。急進派の中には、「節刀(将軍が出陣するときに天皇が与える刀)を賜ひて御暇仰出されて然るべし。また会津は勇敢の藩なれば攘夷の為、大樹(=将軍)に随ひて帰府せしむべし」という者もいたそうです。 <ヒロ> 『徳川慶喜公伝』では、急進派が東帰を支持したのは、幕府と会津藩を遠ざけて王政復古を容易にしようとしたからであり、幕府が攘夷を実行しない場合はこれを親征の口実にすることができるからだとしています。 関連:■開国開城:「幕府の生麦償金交付と老中格小笠原長行の率兵上京」■幕末日誌文久3 ■テーマ別:「第2次将軍東帰問題と小笠原長行の率兵上京」 ■朔平門外の変 【京】文久3年5月21日、御所九門内学習院の門において、三条実美を姉小路公知の一味として脅迫する張り紙が発見されました。 「転法輪三條中納言。右之者姉小路と同腹にて、公武御一和を名として実は天下の争乱を好候者に付、急速に辞職隠居不致においては、不出旬日加天誅可令殺戮者也」(「官武通紀」) 朝廷は土佐藩・肥後藩に命じて、各十人の藩士に三条家を護衛させました。 <ヒロ> 脅迫文は、前夜に御所内講朔平門外で起きた姉小路公知暗殺(こちら)を受けたものとなっています。姉小路は摂海巡視以来、開国説に傾いており、東久世の回想によれば、武市半平太・轟武兵衛ら急進派からは軍艦奉行並勝麟太郎(海舟)に籠絡されたと不評だったそうです(こちら)。その武市・轟らが影響力をもつ土佐藩・肥後藩が三条家の護衛を命じられたというのが、ちょっと奇妙だなと思います。 同日、二条城に登城して姉小路公知の訃報を聞いた軍艦奉行並勝麟太郎(海舟)は落胆の心情を日記に記しました。 「聞く、昨夜四ツ時、姉小路殿退朝の折、御築地の辺にて、何者やらむ、刃を振ふて胸間をさして逐てんとすと云。此人朝臣中の人物にて、大に人望ありしが、何等の怨にやよりけん、此災害に逢はれし。少子輩此郷に附きて、海軍興起より、護国の愚策、奏聞を経て、既に御沙汰に及びしもの少なからざりしに、実に国家の大禍を致せり。嘆息愁嘆に堪えず」 関連: ■テーマ別:「朔平門外の変(姉小路公知暗殺)」 参考:『勝海舟全集1幕末日記』、『幕末確定史料大成』(2004.7.8) ■御所九門・六門警備体制 【京】文久3年5月21日、朝廷は、前20日の姉小路公知暗殺を受けて、諸藩(備前・薩摩・因幡・水戸・仙台・長州・肥後・土佐・阿波の九藩)に対し、外講九門外の警備を命じました(表1)。 両伝奏雑掌よりの触書の概容は以下の通り
<ヒロ> 九門外警衛を命じられた九藩は、5月15日に御所出火時の九門外非常警戒を命じられていました(こちら)。前回との違いは出火ではなくテロが理由であること、非常警戒という短期的なものではなく、より長期的警衛を命じられたという点です。 ●守護職会津藩の御所警備主導権確立工作 会津藩は姉小路暗殺後、直ちに九門の独占警備を申し出ましたが、「衆人疑念ヲ懐候会津」ゆえ、九門警備から除外されました。しかし、嘆願し続けた結果、水戸藩の受け持つ蛤門の警備を振り替えられました。(日付不明)
<ヒロ> 蛤門の守衛を会津藩にとって代わられた水戸藩の無念やいかに・・・。 表1:御所九門警備体制 (関連:豆知識:御所の九門・六門)
参考:出火時の御所内講六門警備体制(5月15日の朝命)
関連■テーマ別文久3年:「親兵設置と御所九門・六門警備」 参考:『七年史』一p306-307、『孝明天皇紀』巻162p4-6、『幕末政治と倒幕運動』p120-124(2001.7.6、2012.12.26) |
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