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☆京都のお天気:晴天、極暑 (『幕末維新京都町人日記』) ■長州入京問題 >長州勢の動き 【京】元治元年6月25日、長州藩京都留守居役乃美織江は、朝廷・幕府に対し、前24日に伏見に到着した家老福原越後が、二、三日伏見に滞留する旨を届け出ました。その理由は、福原が東上の途中で池田屋事件の報に接し、事情を調べて国許に報告する必要があるためとされました。 【山】同日、真木和泉・久坂玄瑞・入江九一等は、在京諸藩(紀州、尾張、水戸、阿波、津和野、越前、備前、因幡、芸州、薩摩、桑名等)に哀訴状(廻状)を差出し、入京の斡旋を嘆願しました。 因幡藩伏見屋敷は浜忠太郎・入江九一連署の哀訴状(廻状)を受け取ると、早速その日のうちに薩摩藩(たぶん他藩にも)に廻達しています(親長州ですから)。この後、因幡藩留守居役は諸藩の留守居の参集を求めるなど頑張り、加賀藩世子は禁裏守衛総督一橋慶喜と老中稲葉正邦に使者を送って寛大な処置を説き、その他、備前・阿波・芸州等はそれぞれ朝幕に上書して長州に寛大な処置を願います。(同情作戦大成功です。しかし、薩摩藩は・・・)。 参考:『維新史』四p43-44, p62、『玉里島津家史料』三p415-416、『維新史料綱要』五 >在京薩摩藩の動き 【京】元治元年6月25日、西郷隆盛は、国許の大久保利通に対し、今度の「戦争」は長州と会津の「私闘」であるので薩摩藩は朝廷守護に専念すること、「無名の軍」を動かすのは「汚名」となるので淀出兵の幕命を「断然」拒否したこと等を報せました。 ※書簡の内容をピックアップするとこんな感じです。
<ヒロ> 長州の東上元々は8.18政変の雪冤を訴えるための東上で、東上自体は、池田屋事件の報を受ける前に決まっていました。薩摩藩は、政変で長州一派を追い落とした当事者なのに、長州の東上には他人事で、前日も、朝廷守衛に専念するとの理由で淀出兵の幕命を拒否していました(こちら)。実際のところは、今後起るかもしれない「戦争」を池田屋事件を発端とする会津vs長州の「私闘」とみなし、傍観を決め込むことにしていたんですねえ。会津は「薩藩の剛悍」と頼りされているというのに(6/24)。それにしても、幕命、軽んじられてます・・・。 参考:『西郷隆盛全集』一p326-330(2008/1/24)
同日、壬生在住の高木在中は、この日の日記に、今にも一戦が起こるかもしれないと記しています。緊張が高まっています・・・(『幕末維新京都町人日記』p216) ■横浜鎖港問題 【京】元治元年6月25日、一条家一門38名の公卿が連署して横浜鎖港を督促する建白を行いました。(中山忠能、大原重徳らが含まれます) 前24日に、禁裏守衛総督一橋慶喜が、関白二条斉敬に、横浜鎖港をめぐる江戸の政変(22日の鎖港推進派の政事総裁職松平直克の更迭こちらのこと?)を報告していたので、それを受けたものになるでしょうか。 なお、建白中には、<このまま時が過ぎれば「慷慨報国之徒」が「過激之行作相発」するかもしれない>との内容が含まれていました。(『維新史』四p43) 関連:■テーマ別元治1横浜鎖港問題(2) ■四国艦隊下関砲撃 【長】長州藩主父子、重役、講和のために英国公使の書を携え、英国艦で23日に帰国した井上聞多(馨)・伊藤俊輔(博文)を交えて協議。(結果的に、講和は受け入れず)(『綱要』) |