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元治元年6月25日(1864年7月28日)

【伏】山崎屯集の真木和泉・久坂玄瑞・等、在京諸藩に入京斡旋を嘆願
【京】西郷隆盛、大久保利通に長州の伏見到着と在京薩摩藩の朝廷守護専念の方針を報知

☆京都のお天気:晴天、極暑 (『幕末維新京都町人日記』)
■長州入京問題
>長州勢の動き
【京】元治元年6月25日、長州藩京都留守居役乃美織江は、朝廷・幕府に対し、前24日に伏見に到着した家老福原越後が、二、三日伏見に滞留する旨を届け出ましたその理由は、福原が東上の途中で池田屋事件の報に接し、事情を調べて国許に報告する必要があるためとされました。
【山】同日、真木和泉・久坂玄瑞・入江九一等は、在京諸藩(紀州、尾張、水戸、阿波、津和野、越前、備前、因幡、芸州、薩摩、桑名等)に哀訴状(廻状)を差出し、入京の斡旋を嘆願しました。

因幡藩伏見屋敷は浜忠太郎・入江九一連署の哀訴状(廻状)を受け取ると、早速その日のうちに薩摩藩(たぶん他藩にも)に廻達しています(親長州ですから)。この後、因幡藩留守居役は諸藩の留守居の参集を求めるなど頑張り、加賀藩世子は禁裏守衛総督一橋慶喜と老中稲葉正邦に使者を送って寛大な処置を説き、その他、備前・阿波・芸州等はそれぞれ朝幕に上書して長州に寛大な処置を願います。(同情作戦大成功です。しかし、薩摩藩は・・・)。

参考:『維新史』四p43-44, p62、『玉里島津家史料』三p415-416、『維新史料綱要』五

>在京薩摩藩の動き
【京】元治元年6月25日、西郷隆盛は、国許の大久保利通に対し、今度の「戦争」は長州と会津の「私闘」であるので薩摩藩は朝廷守護に専念すること、「無名の軍」を動かすのは「汚名」となるので淀出兵の幕命を「断然」拒否したこと等を報せました。

※書簡の内容をピックアップするとこんな感じです。
去る20日より長州人が続々と着坂すると聞くので、方々に探りをいれたところ、わかったことは、長州が多人数で東上してきたのは、5日晩の長州人捕縛の一件(=池田屋事件)に起因しているということだ。約千人で、総裁は福原越後という者らしい。23日に出坂し、24日に伏見に着き、そこに暫く滞留するようだ。大坂では町奉行には江戸に行く途中だと届け出たというが、そのようなことであるはずがない。
今回の「戦争」は「全く長会の私闘」で、「無名の軍」を動かす場合ではなく、(島津斉彬の?久光の?)遺策である「禁闕御守護一筋」に専念するので、承知しておいてほしい。
長州については、藩内では「外夷の襲来」(四国艦隊による攻撃)を待ち、藩外では(京都に)「出軍」となると、実に「死地に陥」った「窮闘」というもので、敗北するのではないか。(長州には)「旧怨」を懐いているが、その窮状を幸いとして兵を動かすのは「無名の軍」となり、「汚名」になるので、「断然」拒否するよう(上層部に)言上し、その通りになった。
長州が敗北すれば、(薩摩藩が)命令を奉じなかったことで幕府の非難を受けることは目に見えているが、それを避けるために「無名の兵」を動かして後々の「恥辱」となってはかえって罪が重いと考えている。この上は朝廷にどのような災難が到来しても「御安慮」になるように専念・尽力するだけである。今後、もし長州が朝廷に対し「御怨み申し上げ」るようなことがあれば、その際は、戦わずにはすむまいと決意している。
以上の件、よろしく執成してほしい。
宮之城公子(=藩主島津茂久の弟である久治)は28日ご出立に決まったが、(長州勢が)武装して(大坂から)陸地・河を上ってくるため、下坂を見合わせるほかないと考えていたところ、公子もこの「変動」を見届けずに帰りがたいとのお考えなので、(出立は)暫時延期とし、状況が少し落ち着くのを待って帰国される方がよいと考えている。
(出所:6月25日付大久保一蔵宛大島吉之助書簡より作成)

<ヒロ>
長州の東上元々は8.18政変の雪冤を訴えるための東上で、東上自体は、池田屋事件の報を受ける前に決まっていました。薩摩藩は、政変で長州一派を追い落とした当事者なのに、長州の東上には他人事で、前日も、朝廷守衛に専念するとの理由で淀出兵の幕命を拒否していました(こちら)。実際のところは、今後起るかもしれない「戦争」を池田屋事件を発端とする会津vs長州の「私闘」とみなし、傍観を決め込むことにしていたんですねえ。会津は「薩藩の剛悍」と頼りされているというのに(6/24)。それにしても、幕命、軽んじられてます・・・。

参考:『西郷隆盛全集』一p326-330(2008/1/24)
※元治1年5月以降の一蔵宛吉之助書簡
・5/12:公家達は「例の驚怖」の病で「暴客」を恐れていること、近衛前関白父子に護衛を差し向けていること、長州・「暴客」が禁裏守衛総督・摂海防御指揮一橋慶喜の野心を疑っていること、「幕奸之隠策」により薩摩に悪評がたっていること、来月にも外国艦隊が長州を攻撃すれば長州・急進派の「暴威」も衰えるだろうこと等
・6/1:幕府・慶喜が外国の手を借りて長州を抑えようとしているという風説、それは憎むべきことであるという考え
・6/2:(8.18 政変の件で)藩士高崎佐太郎(正風)・高崎猪太郎(五六)が「暴客の徒」に憎まれているので暫く国許に引き留めるよう願い出
・6月6日:浪士間における薩摩の評判回復
・6/8:池田屋事件の黒幕が慶喜である説、幕府、(親)長州の双方から味方として期待されているが薩摩は中立の方針
・6/14:池田屋事件・明保野亭事件に係る風説、長州における討幕説、中川宮の辞職周旋、中村半次郎の浪士潜伏
・6/21:一橋家の「内乱」(平岡円四郎暗殺)による慶喜の「暴威」低下の見通し、会津藩と土佐藩の反目等の池田屋事件後の京都の情勢を報じ、薩摩藩の悪評を封じるための商人による外国交易取り締まりを依頼


同日、壬生在住の高木在中は、この日の日記に、今にも一戦が起こるかもしれないと記しています。緊張が高まっています・・・(『幕末維新京都町人日記』p216)

■横浜鎖港問題
【京】元治元年6月25日、一条家一門38名の公卿が連署して横浜鎖港を督促する建白を行いました。(中山忠能、大原重徳らが含まれます)

前24日に、禁裏守衛総督一橋慶喜が、関白二条斉敬に、横浜鎖港をめぐる江戸の政変(22日の鎖港推進派の政事総裁職松平直克の更迭こちらのこと?)を報告していたので、それを受けたものになるでしょうか。

なお、建白中には、<このまま時が過ぎれば「慷慨報国之徒」が「過激之行作相発」するかもしれない>との内容が含まれていました。(『維新史』四p43)

関連:■テーマ別元治1横浜鎖港問題(2)

■四国艦隊下関砲撃
【長】長州藩主父子、重役、講和のために英国公使の書を携え、英国艦で23日に帰国した井上聞多(馨)・伊藤俊輔(博文)を交えて協議。(結果的に、講和は受け入れず)(『綱要』)

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