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☆京都のお天気:双天。(『幕末維新京都町人日記』) ■四国艦隊/池田屋事件前夜の京都の風説(by 西郷隆盛) 【京】元治元年6月1日、西郷隆盛は、国許の大久保利通に書を送り、外国の長州襲来の件について、幕府(一橋慶喜)が外国に長州を襲撃させようとしているとの見方を伝えました。 書簡のポイントはこんな感じ。
<ヒロ> 去る5月27日には因幡藩士が主催する親長州諸藩有志会議において、各自、本藩に長州援兵を働きかけることを決議していました(こちら)。 西郷は、外国による長州襲来は幕府/慶喜の陰謀だという親長州諸藩(有志)の憶測を鵜呑みにしているようです。西郷は、5月12日にも慶喜の悪評を伝えています(こちら)。あまり慶喜によい印象を持っていないようなのですが、朝廷参与の一件で、島津久光と慶喜の反りがあわなかったこともあるんでしょうか?(同じく在京の小松帯刀は、同年5月29日付の国許への書簡にて、慶喜との良好な関係を報じているのですが(こちら)、この件について、小松に裏をとったりはしてないんですかね?)。 参考:『西郷隆盛全集』一p292-295(2018/1/8) 関連:■「開国開城」28 横浜鎖港問題と江戸の政変、四国連合艦隊の下関砲撃事件 ■テーマ別元治1四国艦隊下関砲撃 ■池田屋事件へ 【京】元治元年6月1日、肥後の志士宮部鼎蔵の下僕である忠蔵が新選組に捕らわれました。 忠蔵は宮部のゆくえについて口を割らないので南禅寺山門に縛りつけて何日もさらしものにしたともいいます。これをみかねた旅館小川亭のおかみ、テイがかけあって助け出したといいます。(『宮部鼎蔵先生殉難百年記念誌』) この頃・・・・・ 新選組は中間体の不審人物を2名捕縛し、拷問にかけたところ、長州系浪士が先月から京都に40名、伏見に100名、大阪に500名が潜入しており、洛中放火を計画していることを白状したそうです(『時勢叢談』)。ちなみに、これから1ヶ月余前の元治元年4月22日の木屋町の火災時に不審人物を捕縛した新選組はやはり拷問によって長州人250人が潜伏していることを白状させたとしています。(『改訂肥後藩国事史料』) この時期に京都市内の警戒についていたのは新選組だけではなく、京都守護職から2組約60名、所司代1組約30名、一橋家4組100名などに巡察の命令が下っていました(『孝明天皇紀』) なお、潜入浪士探索中に、新選組や会津藩が逸脱行為を起こしたことも伝えられています。加賀藩の武士が笠を深くかぶっていたところ、みまわりの新選組が槍の先で笠を貫いて顔に傷をつけたが、武士の方が穏便にすませたそうです。また、会津藩は、茶屋での探索のとき、女中2名を突き殺したといいます。(『菱草年録』) <参考>『新選組日誌』上収録の関連史料(新人物往来社) (2000.7.4) 関連:■テーマ別元治1「池田屋事件・禁門の変] ■天狗・諸生の乱 【江】同日、水戸藩は、市川派の市川三左衛門・朝比奈弥太郎・佐藤図書、鎮派の戸田銀次郎を執政に任じました。 この間の動き ◆5/30(7.3)【天狗・諸生】天狗党、筑波山転陣/【長州】家老福原越後に江戸行を命じる |
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