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元治1年6月8日(1864年7月10日)
【京】池田屋事件後:五條橋に禁裏守衛総督・摂海防御指揮一橋慶喜の罪状弾劾の書
【京】西郷隆盛、国許の大久保利通に池田屋事件を報知(慶喜黒幕説、中立を保つ方針)


☆京都のお天気:晴天(『幕末維新京都町人日記』)
■池田屋事件後
【京】慶喜元治元年6月8日、五條橋において、池田屋事件につき、禁裏守衛総督・摂海防御指揮徳川慶喜の罪状を弾劾する書が張り出されました。

<長州藩(関係者)を捕縛したのは、一橋慶喜が計略をもって叡慮を偽り、「奸賊」は「攘夷之志」がなく外国との貿易を盛んにしていたところ、「長州勤王攘夷を相唱」え、実行するのを知った幕府がこれを案じてやったもので、「一橋始幕議に閲する者」は「無此上皇国の大罪人」である。「天下之雄士申合」、遠からず「天誅」を加えよう

誠義雄士>

<ヒロ>
池田屋事件の黒幕として慶喜が挙げられています。事実とは違いますが、会津・桑名の申し出により捕縛を命じたのは慶喜なので、慶喜がやり玉にあがってるのでしょうか。

「誠」が新選組の専売特許でないこともわかると思います。

関連:■テーマ別元治1「池田屋事件〜禁門の変
参考:『徳川慶喜公伝』3(2000.7.10)

(2018/1/8追記)同年5月12日付西郷隆盛書簡では、長州・「暴客」が慶喜のいう攘夷は本心ではなく、腹に一物があると疑っていると記していました(こちら)。さらに、6月1日付の書簡では、外国の長州襲来の黒幕は幕府(一橋慶喜)だとの見方を示しており(こちら)、同2日付書簡でも「長州襲来」の一件や慶喜の「陰策」により変事が起こるかもしれないとしています(こちら)。そして、この日(8日付書簡)では、池田屋事件の黒幕に慶喜がいると唱えています。↓

【京】元治元年6月8日、西郷隆盛は、国許の大久保利通に池田屋事件(一橋慶喜の黒幕説)を報じ、幕府・長州の双方から味方として期待されているが「確乎として動」かず、禁裏守衛に専念すると述べました。

要約するとこんな感じ。
5日夜の会津藩等の浪人捕縛の一件、内田仲之助(政風)からの知らせが夜明けに達し、読んでいる最中に、京都の方角に火が見えたので、実に驚愕し、早々に帰京した。詳しく尋ねたところ、付け火などではなく、長州人の探索は未だ続き、昨夜も二、三人は捕縛されたという。
どうしてこのような事になったのか詳細は分からないが、先日も、(慶喜が?)朝廷に対し、長州援兵を各国(=各藩)より出さぬよう御沙汰を出してほしいと願い出た件がある。浪士捕縛のための守衛は厳重になり、手に余れば切り捨て、人違いでも構わないとのお達しがあったが、これも一橋(=慶喜)が頻りに草案を認めて申し出るので仕方なく御沙汰を出されたそうである。これらは前もって発されており、定めて、長州の本国を外国人に破らせ、京都では悉く排除するという含みがあったのではないか、あるいは、「暴令」を発することにより、忍びかねた長州を暴発させようとの謀(はかりごと)が漏れてこのような始末になったのか、突き止めようとしているが未だ不明である。
長州人の探索は昼夜厳しいという。これによって気を挫かれているか憤激しているかはわからないが、昨日までに三度程国許へ飛脚を遣わしたという。(幕府側は)未だ長州藩邸には攻め込まず、途中又は宿屋等の者ばかりを手にかけているという。(中略)今後、いったいどうなることか。長州もこのままではおらず、(外国船によって)「大破」になるか、大挙して立ち上がるかだろう。
「只今は薩州の処(幕府と(親)長州の)双方より(味方として)望みを掛けられ候様に御座候得共確乎として動き申さず、禁裏御守衛を一筋に相守り居り候」であり、「各国(=諸藩)の心配は露程も存ぜず安気なもの」である。察してほしい。当地は戦場となるかもしれないので、早打ちをもってご注進申し上げる。
(出所:6月8日付大久保一蔵宛大島吉之助書簡より作成)

<ヒロ>
薩摩藩は、京都から長州を追い落とした8.18政変の当事者なのに、西郷は、政変当時、京都にいなかったせいか、他人事のように傍観を決め込んでいます(もちろん、久光が帰国前に「禁闕ノ御守護ノミニ心ヲ用ヒ」るように命じた(こちら)というのも大きいんでしょうが)。文久3年の長崎丸砲撃事件とこの年の加徳丸事件で、薩長の仲はさらに悪化していたと思うのですが、西郷はどうやら長州には同情的で(親長州派の言い分を鵜呑みにしている)、そういう姿勢が親長州の諸藩からも望みをかけられることにつながってるんでしょうか?(関連:「薩摩vs長州」)

<おまけ>
後に御陵衛士の同志となった富山弥兵衛は薩摩藩出身で、内田政風の家臣だったといわれています。

参考:『西郷隆盛全集』一p307-310(2018/1/7)
関連:元治1年5月以降の一蔵宛吉之助書簡
・5月12日:公家達は「例の驚怖」の病で「暴客」を恐れていること、近衛前関白父子に護衛を差し向けていること、長州・「暴客」が禁裏守衛総督・摂海防御指揮一橋慶喜の野心を疑っていること、「幕奸之隠策」により薩摩に悪評がたっていること、来月にも外国艦隊が長州を攻撃すれば長州・急進派の「暴威」も衰えるだろうこと等、報じる(こちら)
・6月1日:幕府・慶喜が外国の手を借りて長州を抑えようとしているという風説、それは憎むべきことであるという考えを伝える(こちら)
・6月2日:(8.18 政変の件で)藩士高崎佐太郎(正風)・高崎猪太郎(五六)が「暴客の徒」に憎まれているので暫く国許に引き留めるよう願い出る(こちら)
・6月6日:浪士間における薩摩の評判回復を知らせる(こちら)
・6月8日:池田屋事件の黒幕が慶喜である説、幕府、(親)長州の双方から味方として期待されているが動かないと知らせる

【京】元治元年6月8日、新選組近藤勇は、故郷に書を送って池田屋事件を報じるとともに、老中からの与力上席の打診をどう思うか尋ねました。

<ヒロ>
この日、近藤は池田屋事件に関する書簡を故郷に送っています。有名な書簡ですが、他の史資料と比較すると新選組、ことに「試衛館一派」の活躍の誇張がみられることはよく知られている通りです。同書簡によると、将軍東下後、老中から近藤を与力上席にしたいがどうかと尋ねられ、国許や父にも伝えたうえでありがたくお受けしたいと答えたそうです。この件をどう思うか故郷の支援者の意見をきかせてくれるよう依頼しています。(元治元年6月8日付近藤書簡)

<ヒロ>
小説ではよく近藤・土方は録位に欲がなく(あるいは与力上席が不満で)断ったとされていると思うのですが、実際は受ける方向で故郷の支援者の意見をきいていました。

同日、市中に長州の浪人が新選組に斬り込むとの噂が流れ、屯所の表門に大砲2門、裏門に大砲1門をすえつけて襲撃に備えました。(「島田魁日記」)また、新選組は大仏河原町の本山一郎(=土佐の北添佶摩)宅からの押収品(槍四本、具足櫃、両掛けなど)を所司代に引き渡しました。

<参考>『新選組史料集コンパクト版』(2000.7.10)

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