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文久2年7月18日(1862年8月13日)
【江】勅使大原重徳と慶喜・春嶽との会見(3)
大原、老中抜きの会見を要求/老中憤激
【京】本間精一郎、岩倉具視ら公武合体派公卿を排斥

■勅使大原との会見(勅使11か条の要求)
【江】文久2年7月18日、勅使大原重徳は、幕府に対し、<昨夜京都から便りがあり、後見・総裁職の両人に相談したい旨があるので、来邸を願う。ただし、老中の臨席はお断りする>と書面で伝えてきました

老中・諸有司は、大いに憤激し、<伝えたい旨があれば登城して、営中でうけたまわりたい>と回答しました。

参考:『再夢紀事・丁卯日記』・『徳川慶喜公伝』2・『維新史』三(2003.8.13)
関連」■テーマ別文久2「一橋慶喜・松平春嶽の登用問題と勅使大原重徳東下」■「開国開城」「勅使大原重徳東下と文久2年の幕政改革

■所司代人事
【江】文久2年7月18日、長州藩士小幡彦七は、越前藩用人中根雪江に対して、京都からの報告によると、酒井忠義にかわる本庄宗秀の所司代就任については不穏な風聞があり、このことを老中板倉勝静に伝えるつもりなので心得てほしいと告げました

参考:『再夢紀事・丁卯日記』(2003.8.13)
関連:■テーマ別文久2「京都所司代人事

■公武合体派排斥
【京】文久2年7月18日、越後浪士本間精一郎は、議奏正親町参上実愛に公武合体派公卿岩倉具視らいわゆる「四奸ニ嬪」の排斥を訴えました

和宮降嫁に尽力した、久我建通(内大臣)・岩倉具視(左近衛権中将)・千種有文(左近衛権少将)・富小路敬直(中務大輔)、今城重子(少将掌侍)・堀河紀子(右衛門掌侍)は、四奸ニ嬪と呼ばれ、尊攘激派の攻撃対象となっていました

本間は、さらに、有志の間に四奸ニ嬪ら十数名の奸物を殺害しようという計画があり、殺害をやめさせるには、四奸ニ嬪を退けるしかない、との書簡を、薩摩藩激派藤井良節とはかって、関白近衛忠煕に提出し、プレッシャーをかけたそうです。(小河一敏「義挙録」)

薩摩藩激派は、特に、岩倉具視を、前所司代酒井忠義の庇護者として憎んでいたそうです。幕府が酒井の罷免を内定して出府を命じたときに、伝奏はこれまでの酒井の公武周旋の功績を称し、帰府時には特別の配慮があるよう申し入れましたが、この申し入れの背後に、和宮降嫁時から酒井と交誼のあった岩倉がいたのだとされているのです

参考:『徳川慶喜公伝』2・『維新史』三(2002.9.20)
関連:■テーマ別文久2公武合体派排斥・「天誅」 


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