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文久2年7月16日(1862年8月11日)
【江】勅使大原と慶喜・春嶽との会見(2)久光陪席をめぐって中止に
【京】長井雅楽謗詞事件が氷解

■勅使大原との会見(勅使11か条の要求)
【江】文久3年7月16日、勅使大原重徳と後見職一橋慶喜・総裁職松平春嶽との会見は、島津久光の陪席をめぐって中止になりました

この日、大原勅使は、御馳走所(=旧伝奏屋敷)における後見職一橋慶喜と総裁職松平春嶽との会見に際して、島津久光の陪席をさせたいと申し出ました。慶喜が老中に相談すると、。久光が勅使を擁して暴論を発すると面倒だとのことで、陪席を謝絶しました。

薩摩藩側は思惑が狂い、大久保利通(一蔵)らは久光の陪席が実現しなければ招請を中止すべきだと大原に迫りました。

翌17日、大原は久光陪席謝絶の理由を詰問し、病と称して会見をとりやめました。

参考>『再夢紀事・丁卯日記』・『徳川慶喜公伝』2・『維新史』三
関連」■テーマ別文久2「一橋慶喜・松平春嶽の登用問題と勅使大原重徳東下」■「開国開城」「勅使大原重徳東下と文久2年の幕政改革

■長州藩論一転&長井雅楽
【京】文久3年7月16日、議奏中山忠能・正親町三条実愛・野宮定功らは長州藩主毛利敬親を学習院に召出し、長井雅楽の謗詞事件の疑念が氷解したこと、また勅使大原重徳の東下について藩主父子が国事周旋に協力するようにとの沙汰を伝達したそうです。

この沙汰は桂小五郎らが予め議奏らに入説した結果だそうです。

ここにおいて謗詞事件に起因する長州藩の危機は回避されたのでした。(とはいえ、もともと謗詞事件は長州藩尊攘急進派による長井雅楽失脚のための画策だったわけですが・・・)

参考>『徳川慶喜公伝』2・『維新史』三
関連:■開国開城「水長盟約と航海遠略策(開国論)」 「長州藩論一転・破約攘夷へ」■テーマ別文久2「長井雅楽と航海遠略策

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