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元治元年7月24日(1864年8月25日) 

【京】西国諸藩に長州藩追討の幕命
【京】一橋慶喜、薩摩藩小松帯刀の進言により、将軍上洛・指揮を促すため、大目付永井尚志を東下させる
【江】幕府、英・仏・米・蘭の四国代表に対し、
横浜鎖港交渉使節が締結したパリ約定の廃棄を通達。


☆京都のお天気:晴 (『嵯峨実愛日記』)
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■長州藩追討の幕命

【京】元治1年7月24日、幕府は、中国・四国・九州の諸藩留守居役を呼出して、長州追討の朝命を伝達し、出兵準備を命じました。(23日説あり)

(幕命のてきとう訳)
〇右の通り(=朝命の通り)、御所より追討を仰せ出されたので、速やかに軍勢を国許に揃え、指図を待つように。もっとも、彼(=長州藩)が「妄動」すれば、指図を待たずに撃ち入り、「誅滅」するように。
〇但し、寄手・攻口及び攻撃の日限は決定次第達する。

※因幡、松江、津山、備前、福山、芸州、阿波、浜田、津和野、龍野、備中、伊予、宇和島、筑前、久留米、柳川、佐賀、中津、薩摩、肥後、小倉の計21藩。

<ヒロ>
『忠義公史料』によれば、老中稲葉正邦が留守居を呼出し、直達したそうです(大目付永井尚志が出席)。江戸に諮る時間もないので、慶喜が命じたことになります。慶喜の肩書は「禁裏守衛総督・摂海防御指揮」なのですが、職掌を超えてるかもしれない判断を独自で行ったことにはならないんでしょうか??(江戸で何かいわれなければいいけれど・・・)。

ところで、『会津藩庁記録』にも、23日付の朝命伝達の書付が収録されているのですが、それには、具体的な寄手・攻口が記されています。

〇慶喜:大坂で総括
〇松平春嶽:山陽道から攻め入る
〇山陽道:芸州、福山、備中、備前、越前(総括)、津山
〇山陰道:因幡、浜田、津和野、雲州、閣老、板倉
〇九州余:(下関)小倉、筑前、(小郡)中津、(下関)久留米、柳川、熊本、肥前、(萩)薩摩
〇四国:(小郡)松山、宇和島、阿波、土佐
※京阪警衛の部署が続く

会津藩/在京幕府首脳限りへの達書なのでしょうか?

参考:『忠義公史料』三p432、『維新史』四p121、『会津藩庁記録』五458-462(2018/4/15)

■薩摩藩の動き
【江】元治1年7月24日、前23日に兵庫警衛を命じられたは、、「半分」の藩兵を兵庫に派遣しました。(7月30日付大久保一蔵宛小松帯刀書簡)

参考:『玉里島津家史料』三p437(2018/4/25)

■征長総督・副将問題
【江】元治1年7月24日、将軍徳川家茂は、前尾張藩主徳川慶勝に対し、使者を遣わして親書を送り、上京して一橋慶喜と協力するよう命じました。(『維新史』四p128)

関連:■「開国開城」30. 第一次幕長戦争■テーマ別元治1第一次幕長戦

>横浜鎖港問題/四国艦隊下関砲撃
【江?】元治1年7月24日、幕府は、英・仏・米・蘭の四国代表に対し、横浜鎖港交渉使節が締結したパリ約定の廃棄を通達しました。

<経緯>
横浜鎖港交渉使節団は、フランス政府との交渉で横浜鎖港の困難を悟って交渉を打ち切り、それまでの交渉結果(@キンシャン号砲撃賠償、A下関通航、B関税軽減、C両国君主の調印なしの履行、)を5月17日にパリ約定として調印していました(5/17)。使節団は7月22日に帰国、幕府に上書して復命し、海外の形勢を説き、鎖港の不可を論じ、弁理公使の派遣、列国との締盟、海外留学生の派遣、欧米諸新聞社との通信交換、邦人の海外渡航免許の必要を詳説しましたが、聞き入れられず、逆に、使命を全うしなかったことで、23日に処分されていました。

【横】元治1年7月24日、四国代表は横浜に会し、下関海峡通航の自由確保のために長州藩を武力攻撃することを決議し、艦隊指揮官に行動開始を要請しました。

参考:『維新史』四p240-241(2018/4/15)
関連:■「開国開城」28 横浜鎖港問題と江戸の政変、四国連合艦隊の下関砲撃事件 ■テーマ別元治1 横浜鎖港問題(2)四国艦隊下関砲撃

その他の動き
【天狗諸生】筑波山屯集の元水戸藩士藤田小四郎・田丸稲之衛門等、攘夷に先んじて、水戸藩執政市川三左衛門等を討つことにする。処士権堂真卿西岡邦之助等60余人、水戸藩士の党争に関与するを喜ばずに去る。(綱要)


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