元治1(1863) |
<要約>
元治1年7月28日、朝廷は禁門の変を起こした長州の追討令を下した。幕府は、征長総督を前尾張藩主徳川慶勝に、副将を越前藩主松平茂昭に命じ、8月13日には、諸藩の征討部署を示して当月中の出陣を命じた。長州藩は、禁門の変は三家老の暴発だと申し開きをし、その首級を差し出して攻撃猶予を嘆願した。慶勝は、降伏の条件として、@謝罪書の提出、A山口新城の破却、及びB五卿の引き渡しの三条件を達し、長州藩は、12月5日に謝罪書・総督の令達の請書を提出。慶勝は、12月27日、出征諸藩に撒兵帰休を命じ、第一次幕長戦は戦わずして終結した(A:第1次幕長戦)。元治1年3月、破約攘夷決行を訴えて筑波に挙兵した水戸藩尊攘「激派」から成る天狗党は、幕府や反天狗党が掌握する水戸藩の追討を受け、11月、主君筋である一橋慶喜を通して朝廷に素志を訴えようと、京都を目指して西上を開始した。しかし、幕府から彼らとの内通を疑われることを恐れた慶喜は、天狗党を幕府に抗戦した「賊徒」だとみなして、朝廷に追討を願い出、12月、近江に出陣した。天狗党は慶喜の率いる追討軍と戦うことはできないと降伏した(B:天狗西上)。 |
幕府/京都 |
総督・指揮:一橋慶喜28歳 | 守護職:松平容保30歳 | 所司代:松平定敬 19歳 |
老中:稲葉正邦(淀)31歳 (但し、征長出陣で京都不在) |
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幕府/江戸 |
将軍:家茂19歳 | 老中:水野忠精 33歳 ※首座(〜10月) |
老中:牧野忠恭 |
老中:阿部正外(6月〜) | 老中:諏訪忠誠(6月〜) | 老中:本庄宗秀(8月〜) | |
老中格:松前崇広(7月〜) ※11月から老中 |
老中:本多忠民 ※首座(10月〜) |
朝廷 | 天皇:孝明34歳 | 関白:二条斉敬 49歳 | 国事扶助:中川宮40歳 |
◆征長軍進発の遅れ元治1年7月23日、朝廷は禁門の変を起こした長州の追討令を下したが、征長軍の進発には3か月以上かかった。・征長人事をめぐる江戸と京都の意思疎通 8月2日、将軍徳川家茂は、諸侯・有司を召見して朝命を示し、自ら進発する旨を表明した(こちら)。 さらに征長総督を紀州藩主徳川茂承(すぐに前尾張藩主徳川慶勝に変更)を、副将は越前藩主松平茂昭に命じ、8月13日には、慶喜の達した長州征討部署(五道)を示して当月中の出陣を命じた(こちら)。 ところが、京都では、慶喜が、7月24日、朝命を江戸に報じるとともに西国諸藩に征長部署を示して出兵を命じていた(こちら)。征長総督は慶喜が務めるつもりであり、会津(や薩摩)と連携して、前越前藩主松平春嶽に副将の就任・上京を要請した(春嶽は固辞)。京都と江戸で通達の内容に齟齬が生じたため、幕府は、8月22日、諸藩に対して京都より江戸の通達を優先させるよう命じた(こちら)。以後、慶喜は征長のかやの外に置かれることになった。 ・将軍進発問題・征長総督問題 幕府は将軍の進発を表明したものの、当時、関東では、横浜鎖港問題と天狗・諸生の乱という外患内憂を抱えていた。また、幕府は、二度の上洛で財政が疲弊しており、その上、数カ月前の上洛で実行不可能な横浜鎖港を約束させられたこともトラウマになっていたので、本音では進発に消極的だった。麾下の旗本・御家人も、打ち続く泰平で士気が緩み、武備もそろっていなかった。また、慶喜の後年の談話によれば、幕府には「ただ進発するといっておけば、それでむこうが勝手に閉口する」(p83)という考えもあった。このため、幕府は、進発に関する様々な布告は行うものの、進発期日は明らかにせず、ずるずる時が過ぎた。一会桑と一部の諸藩は頻りに将軍の進発を促したが、参勤交替の復旧を布告するなど幕権回復志向を強める幕府首脳(特に老中諏訪忠誠、老中(格)松前崇広、若年寄酒井忠ます)はまともにとりあわなかった。一方、総督に任命された徳川慶勝も非才や病を理由に固辞し続けた。慶勝は9月21日になって上京したが、幕府に全権委任を条件として要求し(こちら)、10月5日にようやく請書を提出した(こちら)。 ・総督・副将の出陣 総督・副将ともに、将軍上洛・進発を切望していたが、ついに10月12日に参内して暇乞いをした。10月22日には大坂城で諸藩代表を招集した軍議を開き、11月11日の布陣完了・18日の攻撃開始を達した(こちら)。慶勝は、11月1日に陸路出陣し、16日に芸州に到着した。副将の茂昭は、11月2日に海路九州へ出立し(こちら)、11日に小倉に到着して本陣を構えた。 ◆長州藩の恭順・恭順をめぐる長州藩内の対立禁門の変の報は、7月23日に山口の藩庁に達した。藩主父子や主だった重臣は、下関への外国艦来襲対策会議を開いている最中だった。難題を一気に二つ抱えることになり、打開策を協議した結果、三家老の暴発だったと申し開きをすることになった。 8月2日には出陣した三家老(益田、福原、国司)を罷免して徳山に監禁し、支族岩国領主の吉川監物に恭順周旋を依頼した。しかし、恭順の方法については、保守穏健派の唱える「純一恭順説」(恭順を専一として何を置いても毛利家の社稷を守るべきである)と改革急進派の唱える「武備恭順説」(外には恭順を見せ、内では武備を整え、場合によっては幕府に一戦を試みる)に分かれて鋭く対立した。9月25日、藩主毛利敬親は藩是決定の会議を開いたが、井上聞多が武備恭順を強く主張し、その主張にそって藩是を決定することになった。ところが、その夜、井上は数人の刺客に襲われて重傷を負い、混迷する藩情に責任を感じていた周布政之助も自刃した。改革派は急速に勢いを失い、10月3日には敬親も保守派が多数を占める萩に移った。敬親は、10月20日には、武備恭順を唱える奇兵隊等の諸隊の総督に対して、恭順謝罪の決意を告げて解散を諭した。しかし、諸隊は応じず、山口に脱出して、逆に保守派を非難する上書を提出した。さらに、11月中旬には五卿を奉じて長府に転陣して萩の藩庁と対峙した。 ・恭順周旋 征長総督の徳川慶勝も開戦には消極的だった。進軍前に岩国の吉川監物に密使を送って、恭順謝罪すれば寛大な処分になると説かせており(こちら)、監物は、三家老の厳罰をもって処分寛大を請う嘆願書を提出していた(こちら)。さらに、慶勝は、(薩摩藩の利益のために)長州人に長州人を制させるとともに長州の壊滅を避けることを画策していた西郷隆盛(こちら)を総督参謀とし、彼の言を容れて、長州恭順の周旋を内命した(こちら)。総督の内命を受けた西郷は吉井幸輔らと先発し、11月4日に岩国で吉川監物に面会して、三家老の処刑及び激徒の処分を急速に行うよう勧めた。この結果、萩の藩庁は、11月11日に三家老に自刃を命じ、12日には四参謀(宍戸左馬介・竹内正兵衛・佐久間左兵衛・中村九郎)を処刑した。吉川監物は、家臣を芸州に遣わし、宗藩元家老の首実検、激徒の処分、元中納言三条実美等五卿の移転にる攻撃猶予を嘆願した(こちら)。 ・長州藩の降伏と征長軍の撤兵 征長総督府は、11月18日、元三家老の首級を改めると、朝廷・幕府に長州藩主父子恭順の情及び攻撃猶予の令達を上申し、19日、吉川監物に、降伏の条件として、@謝罪書の提出、A山口新城の破却、及びB五卿の引き渡しの三条件を達した(こちら)。11月25日、藩主父子は萩城外に蟄居し、12月5日、長州藩は、征長総督徳川慶勝に、藩主父子の謝罪書・総督の令達の請書を提出した。総督府の巡検使は12月12日に芸州を出立すると、山口(19日)、萩(20日)を廻って芸州に戻った。その報告を受けて、12月27日、慶勝は、出征諸藩に撒兵帰休を命じた(こちら)。長州では、12月15日夜に急進派の高杉晋作が挙兵して藩庁に反乱を起こしたが、(撤兵ありきの)総督府は撤兵の方針を変えなかった。 ・五卿の移転 総督府が出した三条件のうち、五卿の引き渡しは、急進派の諸隊が激しく抵抗したために難航したが、筑前藩月形洗蔵らが中心となって周旋にあたり、結局、筑前藩に五卿が移ることになった。当初は、薩摩・肥前・久留米・肥後・筑前の5藩に一人ずつ預ける予定だったため、各藩が警護の兵を出すことになった。(西郷隆盛・吉井幸輔らも周旋を支援した)。 ◆対長州強硬派の不満と薩摩藩への嫌疑 |
江戸の幕府首脳との疎隔 禁門の変後、一会桑は、孝明天皇の支持の下、二条関白・中川宮と結んで、朝廷と幕府の関係強化をはかろうとした。一会桑は、速やかに将軍が上洛し、「朝敵」となった長州追討の指揮をとることが、朝廷尊崇・幕威回復になると考え、将軍の急速進発を頻りに促した。ところが、幕府首脳は将軍進発に本気ではなく、他者の政治介入が幕権を損なうと考えていたため、まともに取り合わず、特に熱心に運動をした会津藩は逆に疎まれた。また、征長総督問題については、徳川慶勝が就任を固辞し続けたため、肥後藩・会津藩・桑名藩の間で慶喜を総督にして速やかに征長を行うべきだとの論が起り(こちら)、会津藩・桑名藩が周旋を行ったが、この件は、幕府首脳を激怒させた。会津藩は元から幕府に猜疑されていた慶喜とならんで「京都方」だと敵視され(こちら)、幕府が一会桑を京都から江戸に呼び戻す可能性も噂されるほどだった(こちら)。慶喜については、幕軍に敗れて西上する武田耕雲斎ら水戸浪士(B「水戸尊攘激派浪士の西上と一橋慶喜の追討」を参照)との内通も疑われ、実際に、元治1年末に、幕府による慶喜の連れ戻しが計画されたが、二条関白が慶喜の東下を却下したため、実現しなかった(こちら)(開国開城(31)にUP予定) |
高杉晋作の功山寺挙兵と赤禰武人(数え26歳と27歳) 元治1年10月、萩の藩庁が保守派(純一恭順派)に掌握されたため、身の危険を感じた高杉は下旬に萩を脱出し、筑前に亡命して、月形洗蔵らの紹介で野村望東尼のもとに身を寄せた。しかし、元三家老・四参謀の処刑を知り、11月下旬、保守派を武力で打倒するために帰国し、諸隊に働きかけた。諸隊は、長府に屯集して、萩の藩庁と対立していたが、奇兵隊総督赤禰武人は、外患が迫る中の内戦は避けるべきだと考え、11月下旬に萩に向かい、藩庁と交渉して、諸隊の鎮静と引き換えに改革派の処分をやめることを約束させていた。高杉は、諸隊に下関新地の会所襲撃を提案するが、萩から戻ってきた赤禰は当然反対した。高杉は、赤禰を、自分のような三百年来の家臣とは違う「一土民」であり、国家や君公の危急がわからないのだと侮辱し、武士と土民を比べるなと激昂したが、諸隊の賛同を得られず、下関に去った。そして、下関にいた伊藤俊輔の預かる力士隊の説得に成功し、12月15日夜、功山寺で決起した。高杉は力士隊(と一部の遊撃隊)を率いて新地会所を襲撃すると、海軍局を襲って軍艦を奪取した。萩の藩庁は、反乱の報を受けて、12月19日、投獄していた改革派7名を処刑した(総督府の巡検使が20日に萩に到着予定であり、恭順を明確に示す必要もあった)。赤禰が保守派と取り付けた約束は、高杉の挙兵で反故になったが、赤根は藩内融和をあきらめず、長府国や筑前に移った五卿に仲介を依頼した。しかし、赤禰が出張中の元治2年1月7日、奇兵隊の留守を預かる山縣有朋や他の諸隊が高杉に呼応して挙兵したため、長州は本格的な内戦状態に陥った。 |
関連:■テーマ別元治1第一次幕長戦 ■志士詩歌 第一次幕長戦(三家老・四参謀) |
◆水戸浪士(天狗党)西上元治1年3月、水戸藩尊攘激派(尊攘改革派の一派)の藤田小四郎(藤田東湖の四男)らが、徳川斉昭(烈公)の遺志を継ぐとして、勅命による鎖港攘夷を掲げて挙兵した(天狗党・筑波勢)。幕府は水戸藩に鎮定を命じたが、当時、水戸藩の小石川藩邸は激派が掌握しており、藩主慶篤も、鎮定には鎖港攘夷の断行が必要だと主張した。天狗党は勢いをましたが、軍資金強要で脅迫・殺人を行う隊もあり、騒乱は常野(常陸・下野)に広がった。5月末、水戸から反天狗派(諸生党)が大挙南上し、小石川藩邸では激派が解任され、諸生党が重職についた。さらに、6月、天狗党追討に否定的な政事総裁職松平直克が失脚し、幕府は追討の方針を定めて諸藩に出兵を命じた。水戸藩からも諸生党約300名が出兵した。 7月、下妻の戦いで天狗党が勝利し、追討軍は撤退した。しかし、これより先、小石川藩邸は水戸から大挙して南上した反諸生党(大発勢)に帰していたため、諸生党は水戸城に入って水戸を掌握し、反対派を粛清した。天狗党は攘夷の前に諸生党を討つことを決め、水戸に向かったが、諸生党に撃退された。 幕府は、水戸の混乱を収めるため、藩主名代・松平頼徳(支族宍戸領主)に出陣を命じた。頼徳には反諸生党の大発勢が随従し、途中で激派の武田耕雲斎らも合流した。ところが、頼徳は諸生党に阻まれて水戸城に入ることができず、那珂湊に後退して諸生党と交戦した。天狗党が応援にかけつけ、ともに諸生党と戦うことになった。この間、新たに編成された常野追討軍は水戸城に入って諸生党と合流し、那珂湊を包囲した。9月下旬〜10月中旬、頼徳・大発勢は、幕軍に抗戦する意図はないと投降した。しかし、武田耕雲斎や藤田小四郎ら筑波勢ら約800名は、京都の一橋慶喜を頼って朝廷に攘夷の素志を訴えることに決し、11月1日、耕雲斎を総帥として西上を始めた。慶喜は烈公の実子で文久3年に上洛した際には水戸藩から相談相手として借り受けていたくらい関係の深い人物だった。 また、水戸藩から貸し出された慶喜の側近原一之進や在京水戸藩士(本圀寺党)の多くは尊攘激派であり、耕雲斎らとは同志であった。慶喜も、争乱が水戸内訌に収まっているうちは、耕雲斎らに同情的で、彼らを「正義」、諸生党を「奸」とみなし、実兄で藩主の慶篤が彼らに取り込まれていることを嘆いていた(こちら)。 ◆禁裏守衛総督一橋慶喜・諸藩の出陣ところが、彼らがいよいよ京都に近づいてきた11月末、慶喜は「浮浪の途」追討のための出陣を朝廷に願い出た。朝廷は人心の動揺を理由に難色を示したが、慶喜が懇願し続けるのでついに許可した(こちら)。慶喜は、当時、江戸の幕府首脳から耕雲斎らと内通しているとみられることを恐れており、出陣は自己保身のためでもあった。12月3日、慶喜は追討軍を指揮して京都を出立したが、追討軍の中には慶喜は耕雲斎らを討つのではなく説得するつもりだという噂が流れた(薩摩藩士が触れ回った)。慶喜は耕雲斎らを幕府に抵抗した「賊徒」と呼んで噂を「反間の策」として強く否定した(こちら)。◆耕雲斎らの降伏耕雲斎らは、諸藩との衝突を避けて間道を通り、12月11日に越前新保(敦賀)に到着しが、前方の葉原駅には加賀藩が在陣していた。耕雲斎は、加賀藩に使者と書を送って西上の目的(嘆願)と諸藩に敵意のないことを伝えさせたが、加賀藩の返答は、慶喜加勢で出張しているため一戦するしかないというものだった。耕雲斎らは、議論の結果、自分たちが西上してきたのは尊攘を大義として至情を慶喜に訴えるためであり、その慶喜の先鋒である加賀藩に抗戦するのは本意ではないと決し、加賀軍に慶喜宛の嘆願書・始末書を差し出した(こちら)。しかし、慶喜は嘆願書を降伏書ではないと退け、加賀藩・諸藩に改めて「賊徒」の討伐を命じた(こちら)。総攻撃期限の迫る12月16日夜、耕雲斎らは加賀軍に降伏書を差し出し、17日に823人が投降した。朝廷は、慶喜に対し、降伏した「浮浪之徒」の「相応之裁判」の完了と速やかな帰京を命じた(こちら)。12月21日、慶喜は、耕雲斎らの降伏を受け入れて加賀藩に身柄を預けると(こちら)、帰京した。◆耕雲斎らの幕府への引き渡しと厳しい処分元治2年1月18日、常野浪士追討軍田沼意尊が入京すると、翌19日、慶喜は、朝廷に対して、田沼に耕雲斎らを引き渡し、この上の処置は関東の見込次第、田沼が取り計らうことを奏上した(こちら)。加賀藩では耕雲斎らを寺院に収容し、武士として処遇していたが、田沼は引き渡しを受けると、全員をにしん蔵に押し込んで監禁した。2月4日から23日までの間に352人が処刑され、残りは遠島・・・になった。 |
関連■「幕末水戸藩」かけあし事件簿元治1年 |
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