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元治元年7月28日(1864年8月29日) 

【京】薩摩藩士西郷隆盛・小松帯刀、越前藩士中根雪江・酒井十之丞に書簡を送り、
松平春嶽の奮起・上京を促す
【神戸】薩摩藩吉井幸輔・伊地知正治、勝海舟と面談。
【横浜】四国艦隊:英米艦隊、下関に向けて出航。
【長州】三田尻会議。外国との講和に決する

☆京都のお天気:晴 (『嵯峨実愛日記』)

>第一次幕長戦争へ
■征長副将問題
【京】元治1年7月28日、薩摩藩西郷隆盛(当時吉之助)・小松帯刀は、越前藩重臣中根雪江・酒井十之丞に書を認め、前越前藩主松平春嶽の奮起・急遽上京を懇請しました。福井へは、海江田信義(当時武次)を使者として派遣としました。

両名は、書簡の中で、禁門の変時の長州藩について、「砲弾を以て玉座を驚かし」たことは「悪むべき」であり、御所の騒動に乗じて「鳳輦を西に促し奉るの奸謀と相見え」、その「容易ならざる企ては言語に絶」するとしたうえで、(春嶽は)「追討の処まで御向かい遊ばされず共、急に御上京遊ばされ、朝威を御援助成し下され候義」を「赤心」から願うと述べています。

<ヒロ>
既に、禁裏守衛総督一橋慶喜と守護職・会津藩主松平容保が春嶽の上京を促すのために使者を派遣していました。『西郷隆盛全集』によれば、幕府より、薩摩藩からも使者を派遣するよう要請があり、それにこたえたのだそうです。でも、容保が、春嶽に対して、朝廷と幕府のための奮起を促したのに対し、西郷たちは朝廷のための奮起なのですよね。

参考:7月28日付中根靱負殿・酒井十之丞殿宛大島吉之助・小松帯刀書簡『西郷隆盛全集』一p367-370(2018/4/22)

【神戸】元治1年7月28日、薩摩藩士吉井幸輔・伊地知正治が、神戸海軍操練所・軍艦奉行勝海舟(義邦)を訪ねました。

薩摩藩は、禁門の変後の長州藩東上に備えて、23日に兵庫警衛を命ぜられており、24日に藩兵の半数を派遣していましたが、その中に吉井・伊地知も含まれていたようです。吉井はこの後、1日、3日にも勝海舟を訪ねていて、その日の日記には面談の内容が簡単に記されているので、まずは顔合わせということなのでしょうか。

なお、この日、神戸には、江戸から幕府蒸気船・翔鶴丸が着いており、坂本龍馬が「帰村」しています。

参考:『勝海舟全集1 幕末日記』(2018/4/22)
関連:■「開国開城」30. 第一次幕長戦争■テーマ別元治1第一次幕長戦

>四国艦隊下関来襲
【横浜】元治1年7月28日、前日の仏国艦・蘭国艦に続き、英国艦・米国艦10隻が、下関に向けて横浜を出航しました。(英国艦一隻は遅れて豊後水道で艦隊に合流)

同日、四国代表は、幕府に対し、連合艦隊の出航を通知しました

参考:『維新史』四p242、243
関連:■「開国開城」28 横浜鎖港問題と江戸の政変、四国連合艦隊の下関砲撃事件 ■テーマ別元治1四国艦隊下関砲撃

その他の動き
>第1次幕長戦へ
【京】禁裏守衛総督・摂海防御指揮一橋慶喜、京都守護職・会津藩主松平容保は、前尾張藩徳川慶勝に書を認め、上京を要請。←前に項目だけUpしていましたが、出所がみあたりませんでした(さがしたらupします)。慶勝については、将軍徳川家茂が、上京・慶喜との尽力を命じる使者を派遣しているので、それが京都に伝わり、慶喜・容保が協力して慶勝に働きかけたのかも・・・。容保は7月17日に慶勝に対し、慶喜を猛烈に批判し、上京を懇願する書を送っていたので、二度目の上京要請になりますが、ちょっとバツ悪かったかもですね。


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