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元治1(1863)

開国開城28:横浜鎖港・天狗党追討問題と江戸の政変、四国艦隊の下関砲撃事件
(元治1年6-8月)

<要約>

元治1年5月、将軍家茂は横浜鎖港攘夷確約と引き換えに朝廷から東帰を許され、半年ぶりに江戸に到着した。横浜鎖港を主唱する総裁職松平直克の進言によって開国派老中が罷免されたが、直克も、筑波で挙兵した水戸天狗党を鎖港攘夷に利用すべきだと主張して、6月22日に罷免された。相前後して、幕閣には次々と鎖港に消極的で天狗党追討を主張する人材が登用された(A:横浜鎖港問題と江戸の政変)。7月に入って、前年末に欧州に派遣した横浜鎖港交渉使節が帰国し、鎖港不可を上申した。幕府は使節を更迭し、パリで締結してきた約定(下関通航を含む)の破棄を、横浜の四ヵ国代表に通告した。8月、四ヵ国代表は、下関海峡通航を確保するためにも、かねてから計画していた下関砲撃を実行に移した。長州は大敗して講和を結んだが、前年の外国船砲撃は朝幕の攘夷令を遵奉したのだと主張した(B:四国艦隊下関砲撃事件)。9月、幕府は四ヵ国代表に、下関砲撃の償金300万ドルの支払いか、下関あるいは瀬戸内海の一港の開港を約束した。また、四ヵ国代表は、横浜鎖港について、修好通商条約の破棄は戦争を招くと警告し、条約勅許を強く求めた(C:プレ兵庫開港・条約勅許問題

一橋慶喜の禁裏守衛総督就任と庶政委任の再確認、横浜鎖港断行と将軍東帰戻る
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長州藩の東上と禁門の変(蛤御門の変)

幕府/京都
総督・指揮:一橋慶喜28歳 守護職:松平容保30歳 所司代:松平定敬 19歳
老中:稲葉正邦(淀)31歳
幕府/江戸
将軍:家茂19歳 総裁職:松平直克 25歳(〜6月) 老中:水野忠精 33歳
老中:板倉勝静(〜6月) 老中:酒井忠績(〜6月) 老中:井上清直(〜7月)
老中:阿部正外(6月〜) 老中:諏訪忠誠(6月〜) 老中格:松前崇広(7月〜)
老中:本庄宗秀(8月〜)

朝廷 天皇:孝明孝明天皇34歳 関白:二条斉敬 49歳 国事扶助:中川宮40歳

A. 横浜鎖港・天狗党追討問題と江戸の政変


◆横浜鎖港・天狗党追討問題

元治1年5月20日、京都で横浜鎖港を約束させられた将軍徳川家茂が、半年ぶりに帰府した。当時、江戸で幕府が抱える問題は、3月に即時攘夷を掲げて挙兵した天狗党(筑波勢)の処置だった。天狗党の一部は軍資金強要で脅迫・殺人を行うなど、騒乱は関東に広がっていた。幕閣は天狗党の暴力行為を問題視し、武力討伐を視野にいれていた。

一方、朝廷から鎖港に尽力するよう政事総裁職松平直克は、5月28日には、幕府からも鎖港担当を命じられた。直克は、天狗党の騒乱の根本は横浜鎖港であり、根本が定まれば自然に騒乱も収まるだろうとみていた。鎖港という重要な交渉をするときに国内で兵を動かすのは拙策だとして、天狗党の武力討伐には反対だった。直克は、この二つの問題を解決するには、まず将軍の決断で「因循」(鎖港反対)の有司を取り除くべきだと考え、6月3日に、家茂に閲して、老中酒井忠績・板倉勝静・井上清直らを更迭するよう進言した。しかし、この進言は、朝廷からやはり横浜鎖港問題を委任されていた水戸藩主徳川慶篤には相談なく行われた。翌4日、慶篤は、江戸藩邸の反天狗派の意を受けて登城し、直克をひどく叱責した。この結果、直克は出仕をやめてしまった。

◆江戸の政変

元治1年6月17日〜18日、家茂は、開国派の酒井・板倉老中らを更迭すると、直克を召し出し、天狗党(筑波勢)の鎮定について意見を聞いた。直克は、慶篤に説諭させるべきで武力討伐には反対だと述べた。しかし、(更迭されずに残っていた)井上老中らはその意見を不可とし、6月22日になって、直克は政事総裁職を更迭されてしまった(こちら)。6月28日、幕府は、直克の総裁職更迭にともない、水戸藩主徳川慶篤に鎖港交渉・随時登城を命じた。

鎖港論を主唱し、筑波勢に同情的な直克が罷免されたことで、幕閣には次々と鎖港に消極的で筑波勢追討を主張する人材が登用された。(7月9日には関東諸藩に天狗党追討令が発された)。
天狗党筑波勢(水戸藩尊攘「激派」の急進派)が挙兵したころ、水戸藩(江戸)は尊攘「激派」が藩政を掌握しており、藩主慶篤も鎖港断行がなければ鎮静化は難しいと、しきりに鎖港攘夷を主張していた。しかし、5月下旬に反天狗の市川左左衛門ら諸生党が大挙南上して江戸藩邸に入り、「激派」の武田耕雲斎らを失脚させると、6月1日には市川派が要職につき、江戸藩邸は反天狗になった。しかし、諸生党が天狗追討に出兵している間、今度は反諸生の藩士が大挙して南上した(大発勢)。その結果、7月2日、市川派は追放され、かわって尊攘「鎮派」が江戸藩邸を掌握した。(関連■幕末水戸藩主要事件)
関連:テーマ別元治1■横浜鎖港問題(2)&条約勅許問題  


B. パリ約定の廃止と四国連合艦隊の下関砲撃事件(下関戦争)


◆英・米・仏・蘭の下関砲撃(下関戦争)計画

英国主導の計画
長州藩は、文久3年5月に下関海峡を通航する外国船(英・仏・蘭・米)を無差別に砲撃した。6月には、米仏の軍艦が報復攻撃を行って長州は惨敗したが、その後も下関海峡は、外国船の航行が不可能であり、貿易の障害になっていた。四ヶ国代表は共同覚書(下関航行の自由・長州藩主処分の要求)を提出して、幕府に抗議を申し入れたが、幕府は長州藩に対して断固とした処分を採りかねていた。

元治1年1月に再任した英国公使オールコックは、本国での訓令もあり、横浜鎖港や下関航行不能といった貿易の障害排除に積極的だった。オールコックは、三ヵ国代表に、下関砲台の破壊を提案しし、4月25日、四ヵ国代表は、@下関海峡通航の自由・長州藩主処分の要求を速やかに実行するよう幕府に警告する、A横浜鎖港交渉には一切応じない、B条約既得権・在留外国人の保護を求める、の3点の覚書を作成し、これらが実行されなければ非常の手段に出ることを幕府に警告した。幕府は、将軍東帰後の5月28日に正式な回答をしたが、その内容は曖昧なものだった。四ヵ国代表は、6月19日に会議して下関砲撃の共同覚書策定し、幕府に、20日以内の現状改善がなければ、無警告に軍事行動を起こすことを通告した。

・井上聞多・伊藤俊輔の周旋失敗
当時英国に密航して留学していた長州藩士井上聞多(馨)・伊藤俊輔(博文)は、現地で下関砲撃計画を知り、急遽帰国して英国公使等に面会し、講和のため藩主を説くことを嘆願した。井上らは英国艦に乗船して長州に向かい、6月24日に長州に戻ったが、説得は失敗した。6月28日、長州藩は、外艦の来襲に関して必戦を期すべきを布告すると、7月2日には、姫島沖に碇泊中の英国艦に井上・伊藤を派遣し、文久3年の外国艦砲撃は朝旨遵奉の結果であるため、更に朝命を候して確答することを告げて、艦隊来航の延期を求めた。しかし、英国艦は聞き入れずに立ち去り、7月11日に横浜に帰港した。

◆横浜鎖港使節の帰国とパリ約定の破棄

元治1年7月22日、横浜鎖港交渉使節・外国奉行池田長発(ながおき)らが任務途上で帰国し、鎖国不可の上書を提出した(こちら)。使節団の主要目的は江戸に近い横浜の鎖港だったが、フランス側はこれを拒否し、逆に三港(横浜・長崎・箱館)の自由貿易港化、長州による仏船キンシャン号砲撃賠償、下関通航の自由を主張して譲らなかった。鎖港が不可能だと悟った使節団は交渉を打ち切り、他の国を歴訪もとりやめて帰国することにした。一連の協議における合意事項はパリ約定(キンシャン号砲撃賠償、下関通航、関税軽減)としてまとめられた(こちら)。(※)

幕府は、任務途中で帰国した池田長発の外国奉行を免じ、7月24日には、横浜に滞在する米・英・仏・蘭の四ヶ国代表に、パリ約定の廃止を通告した(こちら)

◆四国連合艦隊下関砲撃事件

・連合艦隊の下関攻撃
7月24日、四ヵ国代表は、自力で下関海峡の通航を確保するために、連合艦隊を組織して長州を攻撃することを決議した。8月4日、連合艦隊17隻が下関に迫り、8月5日に攻撃を開始した(こちら)。その日のうちに主要な砲台を破壊し、翌6日には上陸して砲台を占拠・撤去した。長州側が山縣有朋率いる奇兵隊が応戦したが、連合国側の大勝利に終わった。

・長州藩、連合艦隊と講和
8月14日、長州藩は、英国艦上で、5か条から成る講和条約を結んだ(こちら)
一、本日以降、外国船の下関通行の際は、懇切に取り扱う
一、石炭・食物・薪水その他船中の必需品を売り渡す
一、風波の難にあったときは障害なく上陸させる
一、新規の砲台建設、既存の砲台の修復、大砲の設置をしない
一、先に下関から外国船に砲撃をしかけたのに(四国艦隊が下関を)焼き払わなかった償金の支払い、軍の雑費の支払いの2か条を、江戸において欽差より決定することを承知する
高杉晋作と伊藤俊輔(数え26歳と24歳)
連合艦隊との講和交渉は、高杉晋作が中心になって行った。高杉は、元治1年6月から脱藩の罪で座敷牢で謹慎を命じられていたが、8月4日に山口に呼び戻され、下関で交戦中の6日には政務役に抜擢され、藩主代理として講和交渉に臨むことになった。高杉の身分は家老宍戸備前の養子で宍戸刑馬を名乗った。英国の通訳だったアーネストサトウは、交渉初日の様子を「使者は艦上に足を踏み入れた時には悪魔のように傲然としていたのだが、だんだん態度がやわらぎ、すべての提案を何の反対もなく承知してしまった。それには大いに伊藤(俊輔。通訳を務めていた)の影響があったようだ」と回想している(『一外交官の見た明治維新』)
関連:テーマ別元治1 ■四国艦隊下関襲来


C .プレ兵庫開港・条約勅許問題


四国連合艦隊が下関で勝利したことは、8月18日に横浜にもたらされた。四ヵ国代表は外国奉行(竹本正雄・柴田剛中)と会見して、長州藩の外国船砲撃は朝廷並びに幕府の命令(攘夷)によって行われたことを確認するとともに、幕府が内外に相反する態度を改めなければ、直接朝廷と交渉する決意を示し、幕府が下関戦争に係る軍費の代償として、下関を幕府直轄領として開港する意思があるかどうかを確かめた。

また、、9月に入って、四ヵ国代表は、横浜鎖港問題について、幕府に書を送り、条約(=横浜開港を約した修好通商条約)破棄は戦争を意味すると警告し、朝廷への事情説明と条約勅許を求めた。

9月6日、幕府は四ヵ国代表に会し、下関事件の償金は幕府が支払い、下関の開港諾否は、当時上京中の老中阿部正外の帰府後決定することで合意した。翌7日、四ヵ国公使は、朝廷から30日以内の回答がない、あるいは拒否した場合は、幕府の朝廷との交渉を助けるために、大坂に軍艦を乗り入れることを提案した。その後も両者は交渉を重ね、9月22日、幕府は、償金300万ドル支払いか、下関あるいは瀬戸内海の一港(=文久2年のロンドン覚書で開港が先延ばしにされていた兵庫を意味する)を開港することを約した。
関連:テーマ別元治1 ■横浜鎖港問題(2)&条約勅許問題

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長州藩の西上と禁門の変(蛤御門の変

(2018/9/16)

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