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前7月29日の主な動き 【長州】恭順謝罪を決定 【京】十津川郷士の皇居警備追放(賀茂社の警備担当へ)。 ☆京都のお天気:晴残暑甚 (『嵯峨実愛日記』) >第一次征長戦(幕長戦)へ ■征長副将問題 【越前】元治1年7月30日、前越前藩主松平春嶽は、禁裏守衛総督一橋慶喜に対し、上京・征長副将を辞す理由書を認め、使者・目付戸川鉾三郎に交付しました。(ただし、かねてからの持論である諸侯会議による国是を決定を行うのであれば、上京するとしています)。 (経緯) 慶喜は、春嶽に、禁門の変直後に上京を要請していましたが、7月25日、越前藩は春嶽の病を理由に上京を断っていました。しかし、春嶽を征長副将にと考えている慶喜は、26日に春嶽の上京を要請する書を認め、戸川を使者として福井に派遣しました(7/26)。戸川は29日に福井に到着し、春嶽に、慶喜の親書を届け、上京を促していました。(会津藩の使者手代木直右衛門も29日に福井着。同日頃、薩摩藩使者海江田信義(武次)も到着していました) 〇理由書のてきとう訳 第一、元来、不肖の身を以て三軍の号令を総括し、諸藩を指揮することは覚束ないと恐れる。 第二、当春の(将軍)御上洛時、御前にて、直接、紀州公(=徳川茂承)に御名代を命じられており、今さら隠居の私が罷り出て大任を辱めては、「幕府之御失体」にもなり、紀州の君臣や諸藩との折り合いもどうなるかと恐れる。 第三、鎖港を仰せ出された折柄、「開国蘭癖」の名を取る弊藩が上京し、軍事参謀を務めては、朝野の人心が、またまた閉鎖の両論を抱き、「別而関東方抔折合申間敷候得は」、御為に成らないだけでなく、却って「方今御趣意之御邪魔」となるのは必然であると恐れる。 これらは、事を左右にして上京を怠るようで恐れ入るが、決してそうではない。上京しても軍事の件は前条の通り御請けしかね、その他、「皇国」の為の御相談といえば、「御承知之持論ヲ反復」するしか他に見込みがない。(自分の意見を)御採用の思召があるならば、もとより御承知の議論ではあるが、片時も早く「将軍様御上洛、有志之諸侯御会集、於闕下今後之御国是御治定」になることが願わしい。そのような次第(=持論が採用される事)であれば、辞退はせず、上京するが、そうでなければ、上京しても、昨春・今夏のように、またまた旗を巻き、国許へ引き取らねばなるまい。当今の形勢では、私一人上京しては、物議を起こし、朝幕のためにもならず、寸分の益もなく、(また)度々上京により、その都度、旧来の疲弊した(越前藩の)国力がいよいよ逼迫し、ついに士民の扶助も成り難い勢いである。 参考:『続再夢紀事』三pp224-227(2018/4/22) 関連:■「開国開城」30. 第一次幕長戦争■テーマ別元治1第一次幕長戦 >天狗・諸生 【江】元治1年7月30日、幕府は、水戸藩主徳川慶篤の要請に基づき、支族宍戸藩主松平頼徳に対し、慶篤の名代として水戸に赴き、騒動を収めるよう命じました。(綱要) (経緯) ・保守門閥派(諸生党)の江戸藩庁掌握と天狗党(筑波勢)追討令 水戸では、5月、筑波に挙兵した天狗党(筑波勢)の属する尊攘激派(改革派)の政敵、市川三左衛門ら保守門閥派が、「天狗狩」に動き出し、南上して江戸に迫りました。市川派シンパの幕閣は激派の執政武田耕雲斎らを譴責し、水戸藩主徳川慶篤は武田ら激派を罷免・謹慎に処しました。市川派が執政について藩政を掌握し、武田らは水戸に去りました。6月9日、幕府は市川派の働きかけで天狗党追討令を出し、18日、市川らは、天狗党鎮圧のため江戸を出立しました。 ・江戸藩邸における尊攘鎮派・激派の巻き返し 一方、水戸の激派は慶篤が横浜鎖港を実行せず、また武田らを罷免したことに憤激し、江戸の藩庁を刷新しようと南上して小金に屯集しました。6月24日には、鎮派の執政戸田銀次郎らが江戸に到着。6月28日には、小金屯集の徒を鎮静に赴いていた鎮派の執政榊原新左衛門、家老鳥居瀬兵衛が江戸にもどり、戸田銀次郎とともに慶篤に閲して市川派の排斥を進言。7月2日、市川派は罷免されました。水戸で謹慎していた武田も南上し、松戸に至っていました。 ・筑波勢と保守門閥派(諸生党)の戦い 筑波勢は7月9日、追討軍と交戦となり、これを破りました。市川派は激派に帰した江戸に戻れず、水戸を目指し、23日に入城すると、自派を執政につけて水戸を掌握し、激派を圧迫しました。筑波勢は7月25日に水戸城に迫りましたが、市川派に撃退されました。 ・水戸藩鎮定のための松平頼徳出陣 藩内の混乱を鎮撫するために、慶篤は水戸藩支藩宍戸藩主松平頼徳を水戸に派遣する許可を幕府に求めていましたが、同月30日、頼徳に水戸に赴くようにとの幕命が下りたのでした。頼徳は、8月4日、出陣します。武田耕雲斎らもこれに随従しました。 <ヒロ> これがこの後とんでもない悲劇に・・・。 関連:「幕末水戸藩かけあし事件簿」 ※御陵衛士との関連 〇水戸藩主名代松平頼徳の常陸出兵時、江戸上野の雁鍋屋で同志60数名が天狗党助勢のための集会を開いた。伊東も加わるつもりで集会に参加したが、伊東甲子太郎を見込んだ久留米藩脱藩の古松簡治に、「今回はきっと負けるに違いないから、あなたは江戸に残って、後日を期してくれ」と説得されたて断念した。国事のために尽くしたいとの気持ちは高まる一方で、同志の篠原秦之進・服部三郎兵衛らと上洛を誓った。(伊東らの知人西村兼文「新撰組(壬生浪士)始末記」) 〇このころ、伊東甲子太郎と戸田銀次郎には何らかの関係があったようです。 関連:伊東甲子太郎の事件簿「元治元(1864)」@御陵衛士館 (新しいウィンドウが開きます) |