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☆京都のお天気:晴(『嵯峨実愛日記』) >第一次幕長戦へ 【京】元治1年8月3日、禁裏守衛総督一橋慶喜は、感状を薩摩・越前・会津・桑名・彦根・大垣・浅尾諸藩に与え、禁門の変以来の戦功を賞しました。 〇薩摩藩への感状 「 松平修理大夫(=島津茂久) 先般松平大膳大夫家来入京、迫禁闕砲発及乱妨候節、速ニ家来共出張、及接戦候段達御聴候処、常々申付方且一同励忠勤候段抜群之働、一段之事ニ被思召候故、此段可申聞旨、上意候 一 今度長人乱入に付、其手人数中立売御門公卿門持場ニ於テ防戦、賊兵追退ヶ、並堺町御門救応、其余天龍寺へ出帳、是抜群之働候、仍而感状如件 元治元年甲子八月 一橋慶喜 薩摩少将殿」 〇会津藩への感状 「今度長人乱入に付、其手人数蛤御門公卿門持場に於て防戦、賊兵追退、並堺町御門之応援、山崎一手之先登等、抜群之働候、仍而感状如件 元治元年甲子八月 慶喜 会津中将殿」 <ヒロ> ・薩摩藩への感状の前書きをみると、上意を受けて慶喜が賞したという形態ですね。江戸から指示があったなら、どこの藩に感状送るかも指示があったのか、京都に任されたのか気になります。(あるいは全藩に送ったとか?) ・ひな型つくって使いまわしてはいますが、一応、各藩の働きを個別に賞しているんだな、と私などは思ったのですが、『忠義公史料』には「一橋ヨリノ感状ハ、余り委シクハオモハレス候」と小文字で付記されています(不満気?)。 参考:『忠義公史料』p492、『七年史』三p331、『綱要』(2018/4/27) ■将軍進発問題 【神戸】元治1年8月3日、薩摩藩士吉井幸輔は勝海舟を訪ね、土佐藩士坂本龍馬と上京し、策(= 将軍進発)を一橋慶喜に建議し、再び国家のために周旋するつもりだと述べました。 「薩吉井幸助、龍馬同道にて上京、其策を一橋公に建白し、再び為国家周旋せむと云」 <ヒロ> 吉井幸輔の上京目的は、1日に勝海舟に語った将軍進発の建議のためだと思われます。坂本は、7月28日に「翔鶴丸で帰村」しており、軍艦奉行・神戸海軍操練所所長の勝海舟の周辺にいました。なぜ、坂本を同行することになったのかは不明です。 (ちなみに、坂本が、海軍操練所あるいは勝の私塾の塾頭/メンバーだったという説は裏付けがないそうです)。 参考:『勝海舟』(松浦玲)p263−264、『坂本龍馬』(松浦玲)p67 関連:テーマ別元治1第一次幕長戦へ(1) 【江】元治1年8月3日、将軍進発に伴う在府幕閣の役割(随従組・留守組)が定められました。
参考:『維新史』四p125(2018/4/22) その他の主な動き 【長州】 ・禁門の変を主導した三家老(福原越後・国司信濃・宍戸左馬之助)を罷免。(『綱要』) ・四国艦隊姫島集結により、和平使節(伊藤俊輔・松島剛蔵)を姫島に派遣。下関の守備を固める。(『維新史』四p247) |
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