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元治1年8月3日(1864年9月3日)
【京】禁裏守衛総督一橋慶喜、感状を薩摩・越前・会津・桑名・彦根・大垣・浅尾諸藩に与え、禁門の変以来の戦功を賞す。
【神戸】薩摩藩士吉井幸輔、将軍進発建議のため、坂本龍馬を同行して、上京へ。

☆京都のお天気:晴(『嵯峨実愛日記』)

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【京】元治1年8月3日、禁裏守衛総督一橋慶喜は、感状を薩摩・越前・会津・桑名・彦根・大垣・浅尾諸藩に与え、禁門の変以来の戦功を賞しました

〇薩摩藩への感状
「                   松平修理大夫(=島津茂久)
先般松平大膳大夫家来入京、迫禁闕砲発及乱妨候節、速ニ家来共出張、及接戦候段達御聴候処、常々申付方且一同励忠勤候段抜群之働、一段之事ニ被思召候故、此段可申聞旨、上意候
一  今度長人乱入に付、其手人数中立売御門公卿門持場ニ於テ防戦、賊兵追退ヶ、並堺町御門救応、其余天龍寺へ出帳、是抜群之働候、仍而感状如件
 元治元年甲子八月       一橋慶喜
   薩摩少将殿」

〇会津藩への感状
「今度長人乱入に付、其手人数蛤御門公卿門持場に於て防戦、賊兵追退、並堺町御門之応援、山崎一手之先登等、抜群之働候、仍而感状如件
 元治元年甲子八月       慶喜
   会津中将殿」

<ヒロ>
・薩摩藩への感状の前書きをみると、上意を受けて慶喜が賞したという形態ですね。江戸から指示があったなら、どこの藩に感状送るかも指示があったのか、京都に任されたのか気になります。(あるいは全藩に送ったとか?)
・ひな型つくって使いまわしてはいますが、一応、各藩の働きを個別に賞しているんだな、と私などは思ったのですが、『忠義公史料』には「一橋ヨリノ感状ハ、余り委シクハオモハレス候」と小文字で付記されています(不満気?)。

参考:『忠義公史料』p492、『七年史』三p331、『綱要』(2018/4/27)

■将軍進発問題
【神戸】元治1年8月3日、薩摩藩士吉井幸輔は勝海舟を訪ね、土佐藩士坂本龍馬と上京し、策(=
将軍進発)を一橋慶喜に建議し、再び国家のために周旋するつもりだと述べました。


「薩吉井幸助、龍馬同道にて上京、其策を一橋公に建白し、再び為国家周旋せむと云」

<ヒロ>
吉井幸輔の上京目的は、1日に勝海舟に語った将軍進発の建議のためだと思われます。坂本は、7月28日に「翔鶴丸で帰村」しており、軍艦奉行・神戸海軍操練所所長の勝海舟の周辺にいました。なぜ、坂本を同行することになったのかは不明です。

(ちなみに、坂本が、海軍操練所あるいは勝の私塾の塾頭/メンバーだったという説は裏付けがないそうです)。

参考:『勝海舟』(松浦玲)p263−264、『坂本龍馬』(松浦玲)p67
関連:テーマ別元治1第一次幕長戦へ(1)

【江】元治1年8月3日、将軍進発に伴う在府幕閣の役割(随従組・留守組)が定められました。

随行 老中阿部正外、同諏訪忠誠(因幡守、高島藩主)
老中格松前崇広(伊豆守、松前藩主)
若年寄大給乗謨(縫殿頭、田野口藩主)・同立花種恭(出雲守、下手渡藩主)
留守 老中水野忠精(和泉守、出羽藩主)・同牧野忠恭(備前守、長岡藩主)
若年寄酒井忠?(飛騨守、敦賀藩主)・同本多忠紀、同田沼意尊(玄蕃頭、相良藩主)・同平岡道広(丹波守)

参考:『維新史』四p125(2018/4/22)

その他の主な動き
【長州】
・禁門の変を主導した三家老(福原越後・国司信濃・宍戸左馬之助)を罷免。(『綱要』)
・四国艦隊姫島集結により、和平使節(伊藤俊輔・松島剛蔵)を姫島に派遣。下関の守備を固める。(『維新史』四p247)

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