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元治1年8月1日(1864年9月1日)
【京】将軍使者・老中阿部正外参内、天機を候す。東帰を許可される
【神戸】薩摩藩吉井孝輔、勝海舟を訪ね、将軍上洛建白の件を語る
【江】会津藩公用人外島機兵衛、幕府に加増地(2.5万石)を請願。

☆京都のお天気:晴陰蒸熱 (『嵯峨実愛日記』)

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■将軍進発問題
【京】元治1年8月1日、将軍徳川家茂の使者として上京した老中阿部正外が所司代とともに参内し、「長州人入京動揺」について天機を伺いました。また、同日、暇を乞い、許されました。

阿部正外(あべ・まさと)(白河藩主)は、元々、白河藩主阿部家の分家の旗本でした。禁裏付時代に和宮降嫁を周旋、神奈川奉行時に生麦事件に対応、その後、外国奉行等を経て、元治1年3月、幕命により、白河藩主となり、同年6月24日に老中に就任したばかりでした。7月2日より、老中水野忠精とともに、外国掛(横浜鎖港担当)を務めていましたが、7月13日に、京都の不穏な情勢(6月下旬の長州勢の上京)に鑑み、上京して天機を伺うことを命じられていました(綱要)。実際に江戸を出立した日は不明ですが、26日には大坂で勝海舟と面談し、27日頃に入京していました。

<ヒロ>
大坂経由ということは海路上京だと思われるので、実際の江戸出立は、禁門の変の報が届いた後なのかも?いずれにせよ、阿部は、長州追討の朝命が届く前に江戸を出立しており、着京後、一橋慶喜から、頻りに将軍進発の必要性を説かれたたため、急遽東下することにしたようです。(→8月2日、4日を参照)

ちなみに、後年の慶喜の回想によれば、禁門の変の2.3日後、薩摩藩家老の小松帯刀が慶喜に謁し、「長州は今非常に混乱し居るべければ、将軍家にはこの際急にく御上洛ありて、兵を進め給うべし」と進言したそうで、慶喜も「もとより同じ考え」だったので、直ちに永井を東下させたとしています。でも、永井は少なくとも8月12日には在京だったので(勝海舟の日記)、永井と阿部老中を混同しているような気もします。

参考:「野宮定功日記」「飛鳥井雅典日記」「非蔵人日記」(維新史料綱要データベース(元治1年8月1日の稿本))、『勝海舟』p262、『勝海舟全集1 幕末日記』p160(2018/4/27)

【神戸】元治1年8月1日、薩摩藩士吉井幸輔が軍艦奉行勝海舟を訪ね、将軍上洛建白の件について話しました

〇勝海舟日記の8月1日条
「吉井幸助来る。近々上京、再三御上洛之技建白せむと思ふ。如何かと答ふ」

<ヒロ>
吉井は今回は、7月28日にも伊地知正治とともに勝を訪ねています。この日の日記は主語が曖昧でちょっとわかりにくいのですが、上京して将軍上洛を建議しようとしているのは吉井だととりました。もっというと、「答ふ」は実は「問ふ」で、吉井が勝の意見をきいたんじゃないでしょうか・・・?ちなみに、吉井は文久3年11月にも勝海舟を訪ねて将軍上洛について議しています(こちら)

薩摩藩は、7月24日、兵庫警衛のために藩兵を派遣しているので、その中に吉井も含まれていたのだとと思います。(とはいえ、禁門の変の報を受けた世子毛利定広は藩兵を率いて帰国しており、当面の危機はなくなっていました)。

参考:『勝海舟全集1 幕末日記』p160、『勝海舟』p262(2018/4/27)
関連:テーマ別元治1第一次幕長戦へ(1)

>守護職会津藩の財政難
【江】元治1年8月1日、東下していた会津藩京都公用人外島機兵衛は、老中水野忠精・牧野忠恭・大小目付・勘定奉行に対し、加増5万石を改めて請願しました。

<ヒロ>
元治1年2月10日、幕府は会津藩に5万石の加増の沙汰を下していました(2/10)。このときまでに、奥州・江州において各2.5万石との話はでていましたが、未だ沙汰がなかったので、改めて請願したようです(加増は翌慶応1年8月にようやく実現)

参考:8月4日付(在京)神保内蔵助等宛(在府)上田一学等書簡「会津藩庁記録」(維新史料綱要データベース(元治1年8月1日の稿本))(2018/4/27)
関連:「幕末覚書」検証・京都守護職と財政(1)守護職会津藩の膨大な赤字

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