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元治1年8月4日(1864年9月4日)
【坂】老中阿部正外、禁裏守衛総督一橋慶喜の入説で、将軍上洛・征長指揮を促すため、会津藩士を伴い、海路東帰
【坂】勝海舟、続いて東帰する若年寄稲葉正巳に対し、薩摩藩士を伴うことを勧める。
【江】幕府、紀伊藩主徳川茂承に征長総督、越前藩主松平茂昭に同副将を命じる。

☆京都のお天気:霽時々陰(『嵯峨実愛日記』)

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■将軍進発問題
【坂】元治1年8月4日、上京していた老中阿部正外は、一橋慶喜の入説により、将軍上洛・征長指揮を促すため、会津藩公用人野村左兵衛・公用方広沢富次郎(安任)を伴って、下坂しました。

この日神戸から翔鶴丸で登坂した勝海舟が、阿部老中と面談したところ、「京師にても橋公再三御上洛仰せ勧められ、右の為、速に立帰の積。此義行われずば、別に良図なかるべし。我のみにては関東の説得甚覚束無く、兵部(=若年寄稲葉正巳)又同道すべし。順道・黒龍船に明日続きて出帆の事斗るべき成」」と言われたそうです。会津藩公用人野村左兵衛は「会津藩第一等の人物」と評される藩士で、この任務における会津藩の力の入れ具合がうかがえます。

同日、軍艦奉行勝海舟は、老中阿部正外に続いて東帰する予定の若年寄稲葉正巳に対し、薩摩藩士を随行させることを勧めました。

勝は、稲葉に対し、「此度の御使、甚御困難成るべし」との見方を示した上で、薩摩藩でも再三、将軍上洛建白の議論が起っているので、(会津のように)同藩の者を東下させるべきではないかと勧めたそうです。

<ヒロ>
勝の念頭には、7月28日、8月1日、3日と面談した薩摩藩士吉井幸輔があったのではないでしょうか。もしかすると、3日に上京するといっていた吉井が、4日、勝とともに翔鶴丸で海路大坂までやってきていた可能性も?

参考:『勝海舟全集1 幕末日記』p160、『昔夢会筆記』p39-40(2018/4/22)

■征長総督・副将問題
【江】元治1年8月4日、幕府は、紀州藩主徳川茂承に征長総督を、越前藩主松平茂昭に同副将を命じました

(越前藩への奉書)
「一筆令啓辰候。松平大膳大夫(=長州藩主毛利慶親)家来、其兵器を以奉劫朝廷不届至極ニ付、速ニ御征伐被成。付而は、諸大名へ追討被仰付、紀伊殿ニは、今般被仰付候諸藩之惣督御心得諸事御指揮被成、其方には、副将被仰付候間、紀伊殿へ相伺、追伐可致旨被仰出候間、格別尽忠勤候様、上意候。此段、為可相達如斯候。恐惶(きょうこう)謹言 

八月四日    諏訪因幡守忠誠 牧野備前上忠恭、水野和泉守忠精

松平越前守殿」

<ヒロ>
在京幕府首脳は、禁裏守衛総督一橋慶喜に総督、前越前藩主松平春嶽に同副将をという考えでした(7/23)。その考えが江戸に伝えられたかどうかはよくわからないのですが、もしかすると、江戸に伝えられて却下されたということでしょうか?あるいは単なる意思疎通でしょうか?

なお、福井に奉書が届いたのは8月10日だったそうです。(ちなみに、紀州藩は将軍徳川家茂の実家です。(茂承は西条藩出身。家茂が将軍就任後に幕命によって家督を継いだ藩主で21歳。家茂(19歳)とは年齢も近いです)。

参考:『続再夢紀事』三、p253-254、『綱要』(2018/4/22)
関連■「開国開城」30. 第一次幕長戦争■テーマ別元治1 第一次幕長戦

この日(8月4日)のその他の主な動き(綱要)
【京】幕府、京都守護職松平容保に金千両を下賜。池田屋事件の功を賞す。
【天狗・諸生】水戸藩主目代松平頼徳、市川派鎮撫のため出陣。武田耕雲斎ら従軍
【四国艦隊】四国艦隊、姫島を出航し、下関に迫る/長州藩の講和使節(伊藤俊輔・松島剛蔵)、四国艦隊出航後に姫島到着し、引き返す/長州藩、新たな使節(井上聞多・前田孫右衛門)を下関に急派。

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