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☆京都のお天気:晴残暑猶酷烈(『嵯峨実愛日記』) >四国艦隊下関砲撃事件 【江?横?】元治1年8月5日、幕府は四国代表に対し、長州征討を布告したことを報じ、四国艦隊の下関攻撃の延期を要請しました。(8日説あり) しかし、時すでに遅く・・・↓ 【長州】元治1年8月5日、英・仏・蘭・米から成る四国艦隊17隻が、下関の砲台攻撃を開始しました。 〇経緯 7月27日、28日に横浜を出港した四国艦隊は、8月2日、豊後水道姫島に集結しました。英国海軍中将キューバ―を総司令とし、英国艦9隻、オランダ艦4隻、フランス艦3隻、アメリカ艦1隻の計17隻(砲288門、兵5000余人)という編成でした。4日朝、艦隊は姫島を出航して下関に迫りました。 これより先、長州藩は、(自業自得とはいえ)禁門の変・外国艦隊来襲と両方の問題を抱えることになっていたため、議論の結果、外国との講和に決していました。艦隊が姫島に集結すると、講和使節(伊藤俊輔・松島剛蔵)を派遣しましたが、使節が姫島に到着したのは艦隊の出航後で間に合いませんでした。そこで、新たな使節(井上聞多・前田孫右衛門)を下関に急派し、下関航行の自由を保障することで講和を申し入れさせようとしました。しかし、和平交渉に先立ち行った奇兵隊等の説得に時間がかかり、艦隊の攻撃が始まってしまったそうです。 参考:『維新史』四p242, 246-248(2018/4/29) 関連:■「開国開城」28 横浜鎖港問題と江戸の政変、四国連合艦隊の下関砲撃事件 ■テーマ別元治1四国艦隊下関砲撃 |
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