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元治1年8月7日(1864年9月7日)
【江】幕府、紀伊藩主徳川茂承に代え、前尾張藩主徳川慶勝に征長総督を命じる。

8月6日の主な動き(綱要)
【江】老中阿部正外、将軍進発周旋のため、会津藩士とともに海路大坂より帰府。【坂】若年寄稲葉正巳、将軍進発周旋のため、海路東帰へ。

☆京都のお天気:天晴(『嵯峨実愛日記』)

>四国艦隊・摂海防御
【神戸】元治1年8月7日、禁裏守衛総督兼摂海防禦指揮一橋慶喜は、軍艦奉行勝海舟に使者を派遣し、四国艦隊の摂海侵入があれば、応接して退去させることを命じました

四国艦隊が7月27日に下関攻撃を名目に横浜を出港しており、前後に摂海に侵入することに備えてのことになりますが、実際は、5日に攻撃が開始されていました(8/5)

参考:『勝海舟全集1 幕末日記』p161(2018/4/23)

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■征長総督問題
【江】元治1年8月7日夜、幕府は、将軍の「思召」として、紀州藩主徳川茂承(もちつぐ)に代って前尾張藩主徳川慶勝に征長総督を命じました。

〇名古屋に遣わされた上使が伝えた台命
「                               尾張前大納言殿
今般松平大膳大夫父子追討之為進発可致処、度々の上洛、其上関東筋騒敷(=天狗・諸生の乱)、依之御自分儀、総督被成、早々御出陣可被候」(七年史)

〇征長副将・越前藩主松平茂昭への達書
「松平大膳大夫御征伐ニ付、惣督之儀、紀伊中納言殿へ被仰付旨相達候得共、思召之御旨も被為在候ニ付、尾張前大納言惣督被仰付候間、都而御同人へ相伺、追伐可被致候」(続再夢紀事)

(茂承には、21日、将軍旗本後備が命じられました)。

<ヒロ>
わずか3日でなぜ総督人事が変わったのか、よくわかりません。『七年史』には、更迭された茂承は「いと不興の体なりしといへり」と記されています。(御三家中、水戸は、天狗諸生で離れられないので、紀州か尾張かということにはなるのですが)

茂承は若干21歳で、副将の松平茂昭(越前藩主)も29歳と比較的若い(といっても一橋慶喜よりは一歳上ですが)ので、老練な慶勝(41歳)に・・・ということなら、最初からそうしていたような・・・。紀州藩は、後の征長人事で、麾下(後備)に任命されているので単に家茂が茂承に側にいてほしかったとか??

徳川慶勝は、病中で、総督就任をなかなか承知しなかったので、やる気のある紀州にやらせておけばよかったのに・・・と思ってしまいます。(それとも征長はポーズなので、承知しないのを見越して慶勝に総督を任命したとか??)

参考:『七年史』ニp343, 『続再夢紀事』三p268、『綱要』(2018/4/23)

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【四国艦隊】四国艦隊の攻撃、継続。

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