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元治1年8月11日(1864年9月11日)
【京】四国艦隊の下関退去説得の朝命
【坂】大坂城代、守護職・所司代・老中に下関開戦を知らせる

8月8日〜8月10日の主な動き
【四国艦隊】8/8、長州、四国艦隊に講和を申し入れる。
【天狗諸生】8/9、常野追討軍総括田沼意尊、諸藩に筑波山進撃を命令。8/10水戸藩主名代松平頼徳、筑波勢・大発勢を率いて水戸入城をはかる。市川派に拒まれ戦闘。

☆京都のお天気:天晴 (『嵯峨実愛日記』)

>四国艦隊下関襲来
【京】元治1年8月11日、朝廷は、幕府に対し、征長に先立ち、四国艦隊に改めて長州退去を説得するよう命じました。

〇8月11日の朝命(句読点,()内は管理人)
「英国以下軍艦、去月横浜鎖港出帆、終長州表差向候哉之儀言上有之、先比以来、於幕府精々説諭有之事故、只今長州を襲撃候様之儀有之間敷候得共、万一不相守及退去候而ハ、此日(頃?)長州追討被仰出候折柄、内事混清且国辱候間、厚勘弁、自幕府猶説得可有之旨被仰出候事」

※ 江戸への伝達には、中将中務大輔(=高家中条信礼)が遣わされました。

<ヒロ>
幕府(江戸)は、既に、8月5日、四国代表に長州征討令の布告を報じて、下関に向かった艦隊の帰航を求めていました。また、8月8日には、在京の薩摩藩西郷隆盛(吉之助)が、木場伝内宛の書簡に、幕府が外国艦ので長州行きを止めるために目付を派遣したとの伝聞を記しています。そういう情報が京都に届いていたので、「猶説得」なのかなと思います。

参考:「甲子雑録」『大日本維新史料稿本』(綱要DB 元治1年8月11日条)(2018/4/30)

【坂】元治1年8月11日、大坂城代松平信吉(吉田藩主・伊豆守)は、守護職松平容保・所司代松平定敬・老中稲葉正邦に、外国艦が長州で砲撃を行ったことを事を知らせる中津藩の書面(11日付)を送りました。

<ヒロ>
上の朝命との時系列が不明なのですが、朝命の中に「長州を襲撃候様之儀有之間敷」とあるので、攻撃開始の報が届く前に出されたのではないかと考えました。

参考:『会津藩庁記録』五p501

関連:■「開国開城」28 横浜鎖港問題と江戸の政変、四国連合艦隊の下関砲撃事件 ■テーマ別元治1四国艦隊下関砲撃

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